観るのも演るのも日々是好日!

演劇界に生きる男の観劇記録

SPAC-静岡県舞台芸術センターで俳優やってます!

倉敷幼稚園→粒江幼稚園→粒江小学校→倉敷南中学校→総社南高等学校→大阪教育大学

関心あるモノ・コト = 演劇/LEGO/昭和歌謡からJ-POP/字を書くこと/フィギュアスケート鑑賞/温浴施設めぐり/乗り鉄/旅行/睡眠

  • サイモン・スティーヴンス ダブルビル『ポルノグラフィ PORNOGRAPHY/レイジ RAGE』@シアタートラム
    【2025/2/26 14:00〜17:15(途中15分間の休憩あり)】

    2005年のイギリスでの地下鉄テロを題材に、ひたすらモノローグ、もしくは、2人だけの会話で構成された『ポルノグラフィ』と、2015年のイギリスの大晦日を舞台に、様々な場面がコラージュ風につぎはぎされたような『レイジ』。いわゆる社会派な作品で、観客の高い集中が要求される演出。演出は桐山知也氏。

    『ポルノグラフィ』は、事件の日の前後を、7つのモノローグや会話で見せるのだが、小道具などもほぼ無い無対象演技。しかも、1つのモノローグや会話のなかで、場面や時間が結構飛ぶので、言葉にすごく集中して聞いていないと、脳内でのイメージが広がっていかない。観客の想像力に頼るタイプの作品と言える。
    地下鉄の入口のような、墓穴のような舞台装置があり、その周囲と観客席通路が主なアクティングエリア。モノローグや会話が終わるごとに、黄色い規制線テープが張られたり、切られたり。
    亀田佳明さんが、テロリストと思しき人物の、事件に至るまでの過ごし方や感じていることなどを独白(シーン4)し、その後、テロの犠牲者となった人物像を1人ずつ語っていく(シーン1)のだが、この2つのモノローグの対比と語り口が見せ場のひとつと言えるだろう。そのあとの、竹下景子さんのモノローグ(シーン2)も見どころではあるが。
    (『ポルノグラフィ』については、各シーンの上演順は指定されておらず、順番に演じなくて良いらしい)

    『レイジ』は、隔てていた大黒幕が取り払われ、螺旋階段をイメージさせる工事現場のような階段が、穴の舞台装置の後ろに現れる。(舞台美術は木津潤平氏)
    大晦日の喧騒や乱痴気騒ぎと警官隊。作者のサイモン・スティーヴンスが、2015年の大晦日に撮影された実際の写真1枚1枚に、短編を当て書きするように書かれた場面が、地続き的にコラージュされている。1人が何役も演じているのだが、「演じ分けている」という明確な見せ方ではないし、『ポルノグラフィ』と衣裳が同じなので、10年後の世界ではあるのだが、同じ人物のようにも見えてくる。
    こちらの戯曲のほうが言葉が鋭く、暴力的・速球的なセリフが多いため、良くも悪くも突き刺さりやすい。耳にも心にも痛みを覚える、そんな感じ。(翻訳が、『ポルノグラフィ』は小田島創志氏で、『レイジ』は髙田曜子氏)

    一度観て、終演後のポストトークを聞いて、そこで初めて戯曲や作品の全容が見えてきて、演出意図も理解できてくる。そんな舞台なので、予備知識ゼロでの観劇だと相当疲れる(と思う)。2回観れば、戯曲や作品の解像度が桁違いに上がると思うのだが、でもまあ、初見で解像度が高くなる仕掛けがあればなお良かった気はする。(「悲劇喜劇」に戯曲は掲載)
    そのあたりの難解さを、出演者たちが演技力で補っているところもあって、亀田さんや竹下さんがキュッと締めてくれている印象。岡本玲さん、田中亨さん、saraさん、土井ケイトさんの好演も良かった。特に、田中亨さんとsaraさんは全編通して2人組で登場し、おふたりが構築したであろう行間部分が舞台に活きていた感覚があり、今回の上演に欠かせない存在だったと言える。

    加納豊美氏が手がけた衣裳も、布地の切り替えやシルエットデザインがとても良く、それぞれの出演者やキャラクターにとても合っていた。
    あと、全員が青系のアイシャドウを入れていたのも、作品の世界観に合っていたし、効いていた。


  • 春野家族劇場 劇団限界集落 音楽劇『城山小僧』@浜松市春野文化センター
    【2025/2/24 14:00〜15:45(途中10分間の休憩あり)】

    ↓こちらで上演時のライブ配信映像のアーカイブ視聴可能
    https://www.youtube.com/live/M2q7FV20uZ4?si=sqQitNk3dWeFnRr6

    出演者25名(うち、小中学生が半分ほど)の新作は、戦前から戦後を生きた一人の女性「なつ」の半生を軸にした朝ドラ的なストーリーに、宮沢賢治の作品と、地域に伝わる「城山小僧」の言い伝えが絡んでくる作品。
    高齢者の多い客層にフィットした内容でもあり、大所帯となった劇団員たちの見せ場もそれぞれにあり、よく工夫された大作と言える。ラストシーンで涙ぐむ観客も周囲に多く見られた。

    前半のクライマックスで「星めぐりの歌」が歌われる中、あらかじめ配られていたペンライトを(会場係の合図で)振り出す客席の光景は、さながらアイドルのコンサートのようで、春野という場所とその光景の、美しいミスマッチにグッとくる。

    今回は歌う場面は少なめで、芝居や場面転換で見せていく構成。さらに、セリフを極力排除し、言葉に頼らない表現を模索する場面も挿入するなど、劇団としての挑戦も感じられた。
    公演を重ねるごとに、出演者や演出が、ステップアップしていることも分かる。無料公演だったが、いくらかチケット代を取っても(あるいはカンパ制にしても)遜色ないレベルの舞台ではある。

    欲を言えば、(脚本上での)登場人物の使い方というか、描かれ方がもったいない部分がいくつかあった。
    「主人公なつの幼なじみである勲が、後半まったく物語に絡まない」とか、「なつの嫁入り後、なつの家族がほぼ登場してこない」など、メインの数人を除いて、その他の登場人物の主な役割が、「その時その時の、なつの状況や心情を説明するためとしての存在」になってしまっていて、もう少し、周囲の人たちの生活というか、それぞれがちゃんと生きている姿も描いた、たとえばワイルダーの『わが町』のような「群像劇」になっていても良かったかな。
    勲とか、なつのきょうだいとかは、後半でももう少し描いて、さらに魅力的な人物造形にしたり、物語にもっと奥行きを生み出したり、そういう可能性もあっただろう。

    そして、「周囲の人たちの描き込みが少ない」場合、当然ながら、「一言二言のセリフでキャラクターやシチュエーションを見せないといけない登場人物」が結構出てくることになる。
    そうなると、「セリフ以外の部分での見せ方(演じ方)」がかなり重要になってくるのだが、それはやはりプロでもなかなか難しいわけで、劇団員の彼らにはちょっと荷が重すぎた気もする。
    現状、観客がストーリーを追うことには支障ないのだけど、なつとその人物の関係性とか、なつが置かれている状況を浮かび上がらせる、というところまでには残念ながら至らず…

    それから、前半の書き方の丁寧さに比べると、後半がやや駆け足気味にも感じられ、たとえば、離縁されたあとのなつの孤独や、なつが城山小僧と出会ってから別れるまでなどは、もう少し細かく描かれていても良かったのでは、と思ったり。
    特に後半は、「総集編感」や「ダイジェスト感」が少しあって、しかし本来ならば、もっとじっくり腰を据えて描き切るべきタイプの題材だったようにも思う。(あるいは、ややテンポアップする場面や、逆に時間が引き延ばされたようにじっくりと見せる場面など、もう少し場面ごとの演出に緩急やダイナミズムを付けるか)

    あと、おそらく、小屋入りして、明かり付きで稽古できる時間も限られていただろうから、仕方がない面もあるのだが、照明のオペレーションの呼吸が、演じている俳優たちの呼吸と少し合っていないように感じられたのがもったいなく…
    場面の終わりや始まりと、照明との関係が、ややギクシャクしていた印象。退場していく人たちの「できればあまり見せたくない動き」が照らし出されてしまったり、明かりの切り替わりを待ってしまったがための無言時間が生まれてしまったり。

    使われている音楽の大半は、今回も、舞台下手に置かれたピアノの生演奏だったが、今回の題材的には、ピアノ以外の(たとえばパーカッションなどのような)音色があると、物語にさらに奥行きが生まれたような気もする。

    それでも、集まれる時間も限られる状態の中、兎にも角にも、これだけの大作をやり切ろうとする、その心意気は、力強く、美しい。その気概だけでも、充分、称賛に値する舞台ではある。


    浜松市生涯学習機会提供事業 春野家族劇場
    劇団限界集落
    音楽劇『城山小僧』
    脚本・演出 松井茉未

    おばあちゃん 入手健夫
    なつ 柳澤知子
    勲(なつの幼馴染み)/孝一(みどりの父) 中村勇貴
    みどり 柳澤百合香
    清(なつの想い人) 松下倫子
    晶子(なつの親友) 中村彩話
    きく(なつの母) 山下尚美
    重吉(なつの父) 西田公城
    えい(なつの妹) 中林弥栄
    茂(なつの弟)/実(宿屋の息子) 岩本栞
    妙子(なつの妹) 岩本楓
    はる(なつの妹) 中村華野
    ひー坊(なつの弟) 高津とよ
    静子(なつの妹) 松井萌々加
    さと(宿屋のおかみさん) 片瀬博之
    孫作(宿屋の主人) 清水こうめ
    かよ(茂の妻)/よし江(哲太の妻) 宮原くるみ
    哲太 高津菜穂子
    昭三 進藤博行
    たまえ 柳澤歩美
    マー坊 池谷あかり
    さんべさ 高津やちほ
    星たち/山の精 松井柚菜
    城山小僧 中村心音
    星たち 西田大知

    振付・構成 大前光市
    楽曲提供 鈴木のぞみ
    ピアノ演奏 岡本千恵
    音響/効果 チャンジ、田代起也
    照明 三室勇樹、中谷友亮
    衣装 松下倫子、柳澤知子
    舞台セット・舞台美術 高津菜穂子、進藤博行、中村勇貴、田代起也
    制作 劇団限界集落

    主催 浜松市

    2025年2月24日 春野文化センター

  • 劇団山の手事情社 二本立て公演『マクベス』『オセロー』@シアター風姿花伝
    『マクベス』【2025/2/22 16:00〜17:15(途中休憩なし)】
    『オセロー』【2025/2/22 19:00〜20:15(途中休憩なし)】

    ※それぞれ単独での上演ではあるが、交互での上演という企画で、両方観劇したので、まとめての投稿に。

    『マクベス』
    これは山の手の特質だと思うのだが、セリフが非常に明晰で、かつ、「語る」ことが徹底的に意識されていて、聞いていてとても気持ちがいい。
    だから…ということもあるが、エモーショナルが最小限に抑えられているというか、感情表現に対する抑制が非常に効いていた。感情面を出し過ぎてしまうと、男性性/女性性がわりと明確になってしまう演技になってしまうと思うのだけど、そのあたり、「男性/女性である前に一個の人間」感が出ておりオールフィメールという形での上演にも関わらず、女優であることが全く気にならない演出だった。マクベス役以外が皆、同じデザインの同じ柄のシースルーな衣裳だったのも、フェミニンではありながら、女性らしさが強調されすぎず、非常に良い選択だったと思う。
    テキレジが良い意味で挑戦的で、「単にあらすじを追う」とならず(そのため、『マクベス』初心者には人物相関が少し分かりづらいかも)、「こういうものを見せたいんだ」「このセリフを聞かせたいんだ」というような、演出を担当した斉木氏の、作品に対する意思のようなものが透けて見えた。そして、出演者たちも、それをきちんと汲み取って演じているように感じられた。
    なかでも、マクベス役の中川佐織さんの、息を詰めるようなセリフや、ささやき気味のセリフであっても、「一音も無駄にすることなく捨てることなく、想いを語り尽くす」みたいな意気込みが、役の本質と上手く重なって、非常に感動を覚えた。良質な集中で演技をしている感じ、とでも言おうか。クライマックスの「明日また明日また明日と…」の独白も圧巻。
    演出面では、丸いお立ち台のようなスペースと一段下がったその周囲だけで処理し、ミニマムな空間で工夫されてはいたが、舞台が進むにつれ、絵柄の変化が限られてしまったのがもったいなかったか。幻想的な照明も効果的で美しかったのだけど、そこも、後半で少し変化が欲しかったかも。
    冒頭とラストの、円形舞台の周りをゆっくりと歩く人たちの、後ろ足を蹴り上げるような動きが美しく、印象に残る。

    『オセロー』
    デズデモーナの魂(山口笑美)が「結末に至るまでの経緯を回想する」という感じの演出で、オセロー(山本芳郎)が亡くなった姿を幕開きで見せ、その後、原作の冒頭部分から始まる。「作品における『白と黒』」にこだわった演出で、黒い椅子と白い椅子や、デズデモーナの魂の純白のドレス、イアーゴーの頬の黒いあざなど、ビジュアル面でも明確に。
    ただ、白のほうを少し取り上げすぎたというか、デズデモーナの魂のほうに比重や思い入れを置きすぎた感じもあり、黒のほうの演出がもう少し「ドス黒く」ても良かったかな、とも。策略や嫉妬までもが「美しく」描かれすぎてしまった気が。
    二本立ての中では、『オセロー』のほうが、四畳半スタイルのような動きも多用されていたり、ルパム的な振付が何箇所か挿入されていたり、コミカルな要素も少しあったりと、より山の手事情社らしい印象。
    山本芳郎さんは、動いたときに身体が決まるまでの時間が誰よりも短く、身体が決まった状態でのセリフ中は全く身体がぶれず、とにかく、身体の見せ方や扱い方が抜群に上手い(セリフは言うまでもなく)。
    客席に対しての身体の角度の取り方とか、相手との身体の距離の取り方とか、もはや、AIかセンサーでも付いているのではなかろうかと思われるほどに、「そうだよね、それがベストの選択だよね」的に最適解を叩き出してくる。もちろん、長年かけて培われて身に着けたものだろうけど。
    あと、何よりすごいのが、「他の出演者が山本さんに比べて見劣りする」とならないことだ。山本さんの独り舞台にならない。突出していながらも、馴染んでいる。レベルを落として馴染むわけでもなく、山本さんは山本さんでありながらも、「俺、上手いだろ」感が無く、真摯に共演者と対峙している。その感覚は本当に尊敬に値する。
    だからこそ、共演者も文字通り「胸を借りて」果敢に挑んでくる。その「真っ直ぐさ」「がむしゃらさ」もあって、山本さんと並んで見劣りすることが防がれているのかもしれない。先輩と後輩の俳優の理想的な関係性のひとつだろう。

    『マクベス』に比べると、『オセロー』は「クラッシック」な印象の舞台で、『マクベス』が不協和音的なロックだとすれば、『オセロー』は交響曲的だ。原作の作品世界的には逆の印象もあるのに、そこが今回の二本立てでは、逆転しているように見えるのも面白い。


  • テラッピン・パペット・シアター×愛知県芸術劇場 国際共同制作『ゴールドフィッシュ〜金魚と海とわたしたち〜』@愛知県芸術劇場小ホール
    【2025/2/11 11:00〜12:00(途中休憩なし)】

    オーストラリア・タスマニアの人形劇団と愛知県芸術劇場の共同制作作品で、テラッピン・パペット・シアターの芸術監督サム・ラウトレッジ氏と、第七劇場の鳴海康平氏の共同演出。

    作品から察するに、いろいろな制約やしがらみの中で創られたであろうことがなんとなく伝わってくる。着地点が少し分かりにくいというか、試作っぽいというか、「自信作が出来たから持ってきたよ!」というよりは、「こういう条件で創ってみたけどどうでっしゃろ?」感があり…評価が難しい作品とも言える。

    女優がひとり、ファミリー向けの作品を上演し始めると、しばらくして、作品内容にリンクするかのように、劇場の外で洪水が発生して上演中止。劇場は急きょ、防災センター(避難所?)として使われることに。防災センターとしての準備(支援物資が運び込まれたり、上演中のものが片付けられたり)が進むなか、女優はなんとかして上演を続けようと試み、やがて、現実世界と劇世界が入り混じっていき…

    というのがおおよそのあらすじなのだが、「災害大国の日本(の観客)」という視点でいると、展開されることがあまりに非現実すぎて、どこまでをリアルな感じで受け取れば良いのか、判断に戸惑う。「海外の人から見た日本」が「リアルな日本の姿」とどこかかけ離れて描かれることが多いが、まさにそんな感じ。
    「避難所はあんなに朗らかな感じじゃない」とか、「『劇場の外では災害が起きている』を観客に当事者としてリアルな感覚で捉えてほしいなら、もっとシリアスな現場になるはず」とか、「避難所に変わっていくにしては出てくる人が少なすぎ(2人だけ…)」とか、現実に照らし合わせて観てしまうと、ツッコミだらけの作品となってしまう。
    最終的には劇世界のほうで終わり、「劇場の外の洪水はどこへ行った」状態で終演するし…

    一方で、「全てがフィクションであり、ファンタジーてあり、そういう枠組みで遊んでいるだけ」と割り切って観た場合は、「もっと有効な展開の仕方があるのでは?」とか、「災害設定がそもそも無くても良いのでは?」とも感じてしまい、元々上演をしていたファミリー向けのストーリーをもっとしっかり観たくなり…
    なんとももどかしい感じに。

    そんな中、ストーリーテラーも務めつつ劇中劇を進めていく女優の岩崎麻由さんが、この「少し輪郭のぼやけた作品世界」を、どうにかして一定レベルのクオリティに押し上げる役割を果たしていた。彼女の働きが非常に大きい。
    現実と非現実の狭間をたゆたうような存在感というか、彼女の中に、大きく強固な軸があるように見えたので、そのおかげで、砂上の楼閣のような作品が崩れること無く終幕を迎えていたように感じられた。
    終演後、共同演出の鳴海さんに伺ったところ、岩崎さんはニューヨークで、アメリカ人のスズキメソッドの第一人者である、エレン・ローレンのもとで演技をしていた経験もあるらしく、どうりで軸のブレない身体性だったわけだ。そこはかとなく感じられた、良い意味でのスズキメソッド感のおかげたったのか…と納得。

    ちなみに、タイトルは「金魚」という意味で、劇中劇で「世界を救うために金魚の力を借りる」のと、防災センターのひとりが「カッパを着てゴーグルをした姿が金魚に似ている」ことから来ているようだ。


  • ユニークポイント ひつじノ劇場こけら落とし公演『Come on with the rain』@ひつじノ劇場
    【2025/2/10 19:00〜20:10(途中休憩なし)】

    たまたま、NHKドラマ『東京サラダボウル』のベトナム人労働者の回を最近見ていた。たまたま、NHK『映像の世紀 バタフライエフェクト』で「ベトナム 勝利の代償」を最近見ていた。たまたま、アウトリーチのワークショップの関係で詩集を手にしていた。図らずも、今回の作品に繋がるあれこれが、自分の中にあり、感覚が敏感な状態での観劇となった。

    新劇場の杮落し公演(=新劇場お披露目公演)。白子ノ劇場から比べると、間口は3分の2くらいになった印象。アットホーム感や劇場感は、新劇場のほうが勝っているかも。
    ただ、舞台袖は舞台脇に無く、登退場は舞台奥からのみという劇場で、特殊性も増したかも。
    今回の作品もそうだけど、平田オリザの『S高原から』とか、鈴江俊郎の『家を出た』みたいな、「そこに住んでる人たちが集うロビー」設定の芝居が上手くハマりそう。

    ベトナム・ダラットの安ホテルのロビー。季節はずれの台風が接近しているらしく、外は暴風雨で、空港は閉鎖。出国予定だったホテル客の日本人(心臓内科医の夫とその妻)、妻が外のカフェで知り合ったバックパッカーの日本人女性ののぶ子(元教師)と、ホテルのオーナーのベトナム人男性と、不法滞在中のホテルの男性客。
    会話を繰り広げるのは主に日本人たちだが、ベトナム人がいい具合に絡んできて、「本当に日本語が通じないのに、まるで伝わってるかのような反応」の絶妙なリアクションをしたり。

    「さりげなく、いいセリフ」が、今回も散りばめられていて、安定の劇作と演技。行間の演技の巧さも光る。
    「川島が、出かけたきり戻らないまま幕」というパターンも想定しながら観ていたが、無事に(?)戻ってきて、そしていなくなるというドラマが。
    残されたオーナーとのぶ子が、やり切れない想いを噛み締めるかのように、それぞれにバインミーを食べる幕切れが印象的。この終わり方は秀逸だと思った。

    少しひねくれた見方をすれば、「川島は本当に事故に遭ったのか?(事故に遭ったふりをして、あの場から立ち去るきっかけを作りたかっただけなのでは?)」とも思った。川島にしてみると、彼らとの出会いで、自分の中で揺らいだものがあったようにも思うし、だからこそ、なにかきっかけが欲しくてそのきっかけをでっち上げた、という演じ方もあるな、と。
    また、あえてそうしているのだと思うけど、ホテルの殺風景さも、なんだか色々と裏設定を作れそうな余白が感じられた。
    それから、聞き間違いでなければ、設定が2025年の今より、ほんの少しだけ先を行っている気がしたのだが、気のせいか?

    欲を言えば、山田作品の特徴のひとつ「言葉にできない瞬間の『間(沈黙)』」が、いつもに比べると少し物足りなさがあったように、個人的には感じられた。演技の問題というよりは、戯曲の問題なのかもしれない。沈黙状態になってしまうまでの会話の流れと、沈黙状態を脱するための話題の方向転換の仕方に、滑らかさが足りないというか、少しカクカクしていたような印象。「フェードイン/フェードアウト」してほしいわけではなく(そういう意味での「滑らかさ」ではない)、沈黙になる直前の会話とそのあとの会話に、僕には(ほんとに若干なのだが)強引さが感じられた。(もっと豊潤な沈黙の瞬間をこれまでに何度も観てきただけに、今回はそれがあっさりめだった印象)

    またこれも、欲を言えば…レベルなのだが、たとえば、戯曲に描かれているであろう夫の「人物像」と、夫が実際に口にする「民度が低い」みたいな「言葉のチョイス」に、若干のミスマッチさが感じられた。(「この人、こういうボキャブラリーの選択をするんだ…」みたいな)
    また、妻が最初に登場してきた時に夫を見て発する第一声から感じられた「雰囲気イマイチ良くない感じの倦怠期感」と、以降で語られる会話から感じられる「実際はそうでもない感じ(そこまで雰囲気は悪くない)」だったり、金子みすゞについての知識がありそうな感じなのに、実はそうでもないような設定の妻とか、金子みすゞの詩集を旅行に持ち歩く設定だけど、(僕の中では)「金子みすゞを好きな人」から連想され得る人物像とはイメージが少し異なる(ように感じられた)のぶ子のキャラクターとか、「人物像をいつもより曖昧にして書かれている部分が多いのかな?」という印象。

    そしてこれは、本当に個人的な好みの問題でしかないが、自分は「金子みすゞ」(&劇中に出てきた『世界に一つだけの花』も)にそんなに共感性がないので、ちょっと金子みすゞ推しな展開だったのが、自分にはあまりフィットせず…
    金子みすゞである必然性が個人的にあまり感じられなかっただけなのかもしれないし、金子みすゞの実人生の何かとリンクする設定とか、3.11の時に盛んにCMに使われたことが何かに繋がっていく、みたいな設定があれば良かったのかも。


  • 江戸糸あやつり人形結城座 第三回スタジオ公演『綱館/釜どろ』@結城座スタジオ
    【2025/2/7 14:00〜15:10(途中15分ほどの幕間説明あり)】

    元SPACで、いまは結城座で人形遣いとなっている方からご案内いただき、2度目の結城座。今回は小金井市の結城座のスタジオでの上演。「ザ・スズナリの前半分」といった趣きの、キャパ60ほどの稽古場兼スタジオは、小さな演芸場のようでもあり、糸あやつりの人形芝居にピッタリの雰囲気。
    (そして、初めて降り立った武蔵小金井駅からスタジオまでの徒歩20分の道のりも、気になるお店が点在していたり、田舎すぎず都会すぎず、また足を運んでみたくなる街!)

    演目は、古典落語を人形芝居にした『釜どろ』と、歌舞伎でも上演されそうな題材の『綱館』。

    『釜どろ』は、石川五右衛門の手下たちが、親分の敵討ちとばかりに大釜を盗む「釜泥棒」の話。豆腐屋の主人が、釜の中に入ったり、その釜を盗もうと泥棒2人が担いだりと、釜に関係する動きや仕掛けがわりと複雑なのだが、それをあの、糸あやつり人形で、ごく自然に釜を操ってみせるのがなんとも興味深い。(「あやつり人形が、さらに何かを操っている」という、ある種のメタ的な構造が、演劇人として観ていると面白い)

    2作品目への舞台転換中は、今年390周年である結城座の成り立ちについてのレクチャー的なトーク。
    「質素倹約の天保の改革で、猿若町へ追いやられた」とか、「戦後はGHQの転入制限により区内の中心地に戻れず、戻れる範囲で最も中心地に近い吉祥寺で再興した」とか、興味深い話が多く面白かった。

    後半は『綱館』。平安時代の話で、渡辺綱が茨木童子と呼ばれる鬼と対峙する物語。
    綱が身じろぎもせず座っている(=操りの糸を微動だに動かさず、手板を持ち続けることになる)のとか、最後に茨木童子が吊りバトン的なもので吊られる(上昇していく)のとか、長袴や大きな袂の捌き方が実に滑らかであったりとか、後見の存在の重要性とか、見どころがいくつもあった。

    しかし、実は、最も印象に残ったのは、すぐ後ろに座って並んでいた長唄と三味線の4名。
    歌舞伎に比べ、演者との距離が近い(=客席にも近い)ことや、演じられる人形のサイズに比べると(当たり前なのだが)長唄隊のサイズが大きいことが、効果的に感じられた。
    長唄隊の手や表情の細かい動きが、手に取るように見え、普段そこまで見えないし見ないので、いろんな発見もあった。
    また、人形のほうがサイズが小さいことで、「人形たちを外側から包みこんでいる」感が半端ない。歌舞伎だと、役者も長唄隊も、同じ人間ということもあり対等に見えてしまうのだが、糸あやつり人形だと、長唄隊が「物語の世界を形成している」ように見え、「歌舞伎と糸あやつりでの、芝居と長唄隊、両者の関係の違い」が非常に興味深かった。(そしてまた、杵屋正則さんのお声の、強弱と高低の自在な操り方も良かった)

    結城座のために書き下ろされたと言われ、歌舞伎や浄瑠璃でもおなじみの『伽羅先代萩』の上演も年内に予定されているとかで、そちらも気になるところだ。


  • シアター・デビュー・プログラム 平常×萩原麻未『ロミオとジュリエット』@東京文化会館 小ホール
    【2025/1/31 19:00〜21:10(途中20分間の休憩あり)】

    ずっとタイミングが合わず、観られなかった平さんの舞台。久々に観られて満足w

    「花の都・ヴェローナ」から着想を得たと思われる、花をモチーフにした舞台美術のなか、ライオンのロミオ(モンタギュー家側の人物もライオン)と、ウサギのジュリエット(キャピュレット家側の人物もウサギ)で展開される悲恋。
    劇中音楽は全て、萩原麻未さんによるピアノの生演奏で、選曲はクラシックのみ。演奏が入らない場面も多々ある。
    平常さんの脚本・演出による『ロミジュリ』は、上演場面の選択として、モンタギュー家やキャピュレット家の両親は出てこず、パリスも出てこず、薬屋も出てこない。ひとりで演じ分けられて、ストーリーを押さえることができる、必要最小限の場面で構成されている。

    人形は、ロミオは上半身(手もある)、ジュリエットは胸像的(手は無い)なこしらえ。マキューシオ、ティボルト、乳母は、顔部分(目鼻口は無い)のみの人形で、ローレンス神父とエスカラス大公は、平さんが人間として演じる。
    ロミオは、少し声優っぽいというか、人形に声を充てている感じの演じ方に対し、ジュリエットは、かなりノリノリな、身体全体で演じていた印象。(基本的に、女性役の時のほうが活き活きしていたように見えたので、女性が多く出てくる作品が向いてるのかも)

    笑える小ネタも随所に挟まっていて、子どもにも観やすく、楽しめたのだが、小ホールの舞台空間におけるピアノが占める割合が意外と大きく、演奏は確かに素敵だったのだが、もう少し広い空間に仕立てても良かったような。演技空間が少し狭すぎて、ちょいちょい演者が舞台装置に軽くぶつかっていたり、動きにくそうだったのが、観ていて少し気になった。
    あと、ストーリー的に破綻はしていないものの、大前提である「10代前半の疾走的な恋愛」感は少し弱く、その「若さゆえの暴走」みたいなものが感じられるとなお良かったかも。

    小ホールのホリゾント一面に張られた紗幕風の布に、切り絵模様の布が貼り付けられ(縫い付けられ?)ているのが良かった。(植物を連想させる切り絵が、透ける布に飾られているイメージ)


  • 新しいシェイクスピア劇の創造事業/水戸芸術館プロデュース公演『世界のすべては、ひとつの舞台~シェイクスピアの旅芸人』@水戸芸術館ACM劇場
    【2025/1/26 14:00〜15:35(途中休憩なし)】

    『ハムレット』『真夏の夜の夢』『テンペスト』の劇中劇に関係する場面だけを繋いでひとつにまとめた作品で、旅芸人の一座が3つの劇中劇を演じるという設定。
    なので、たとえば『真夏の夜の夢』の劇中劇『ピラマスとシスビー』は、原作では職人たちによる素人芝居だが、本作では、『ハムレット』での『ゴンザーゴ殺し』を演じた旅芸人たちが、次の作品として『ピラマスとシスビー』に取り組む流れとなり、なんだか急に、芝居が下手な人たちのようになってしまったりもするw
    そのあたりの繋ぎ方や設定には改善の余地がありそうだが、旅芸人たちを主軸にしてシェイクスピア作品を紡いでいく着眼点はなかなか良いと思った。構成・演出は大澤遊氏。
    シェイクスピア独特の、韻を踏む感じの(ダジャレ感のある)セリフも、かなり工夫して翻訳したあとがうかがえ、本作に対する意気込みみたいなものが、そのあたりからも感じられた。翻訳は小田島創志氏が担当。

    旅芸人たち以外は、原作ではメインの役どころが本作では脇役となり、池岡亮介さんがハムレット→フィロストレート→ファーディナンド、塩谷亮さんがポローニアス→パック→プロスペロー、大内真智さんがホレーシオ→シーシュース→エアリエルと、3作のメインどころをリレーしながら演じ分ける。
    (ちなみに、大内真智さんはSPACの大内米治さんの兄。声質や喋り方の感じは兄弟で随分違うけど、踊ってる時の身体の使い方はかなり兄弟感がある)

    水戸子どもミュージカルスクールの出身者5名が、アンサンブルとして1シーンだけ(『テンペスト』の劇中劇でのダンスシーン)に登場。華やかな雰囲気づくりに貢献。
    こういう「劇場が育てた人材を、上手く本公演の作品に活かす(そして、それが分かるようにきちんとパンフレットに掲載している)」仕組みも素晴らしい。

    松田洋治さん演じる座長がコミカルに旅芸人たち6人を統率。今井公平さんと伊海実紗さんの新国立劇場研修所出身コンビが、堅実ながらも印象的な仕事ぶり。ラストのダンスシーンで、舞台上方(3階部分?)に登場した西奥瑠菜さんも、あの場面を象徴するような存在でとても良かった。
    あと、旅芸人の見習い役の八頭司悠友さんは、雑用係的な役どころで見せ場があまり無いにも関わらず、ちゃんとその役を生きている感じがあり、悪目立ちすることなく、でもきちんと存在感を残していたように思う。
    八頭司さんが引く幌馬車風の大きな荷車も、旅芸人っぽさを表すアイコンとして上手く機能していて良かった。

    正直なところ、途中までは「劇中劇で繋ぐ」というアイデアのほうが勝っていて、舞台そのものがそこへ追いついていないように感じられるところもあった。だが、『テンペスト』の劇中劇のダンスが唐突に途中で終わり、舞台上が一瞬で空っぽになったその瞬間、ふいに涙がこぼれた。(西奥瑠菜さんのドレスの長い裾が一瞬で消えてしまう、あの演出も秀逸!)
    あの一瞬の「無」になった瞬間が、旅芸人というものの、俳優というものの、本質を表していたように感じられたからだろう。
    呆気なく終わり、無に帰するのみ。どんなに積み上げてきたものであっても、一瞬で、儚くも過去のものとなってしまう。そういう「演劇」の本質がよく表れていた。「ああ、この『無』の瞬間のためにこれまでの物語があったのか」と。
    そしてまた、旅芸人は荷車を引いて別の地へと去っていく。結局、劇中劇を演じていた旅芸人たちもまた「旅芸人」を演じているだけの存在で…そんな風にも見えた。
    どんなセリフよりも雄弁に物語る、あの「無」と、荷車が消えていく絵柄に、すっかりヤラれてしまったようだ。

    ちょっと偏った見方だとは思っているのでw、「絶対観るべし!」とは言わないが、来週末にも公演があるので、「観てみるのもいいんじゃない?」くらいにはオススメしたい。ACM劇場でないと出来ない演出というか、あの劇場の良さをうまく取り込んだ演出ではある。
    (あと、水戸の街の感じも、水戸芸術館全体のコンパクトさも、SPACの人間にとっては懐かしさすら覚えてしまうACM劇場の造りも、個人的にはお気に入りなので、そういう部分での加点も大いに入っている…とは思うw)

    鈴木忠志氏が芸術監督を務めていた創設時に比べれば、随分と活動の規模は小さくなっているとは思うけど、なかなかどうして、踏ん張って演劇の炎をしっかりと灯し続けている姿に、同業者として感心、感動するし、励みにもなる。
    今年の9月には『ロミオとジュリエット』を上演するとのこと。こちらも楽しみだ。


  • 令和7年初春歌舞伎公演『彦山権現誓助剣』@新国立劇場 中劇場
    【2025/1/20 13:00〜17:10(途中15分間と25分間の休憩あり)】

    あらすじがいわゆる仇討物で面白そうだったのと、彦三郎丈が悪役という興味から観に行ったのだけど、想像以上に面白かった。菊之助丈が主役かと思っていたら、確かに主役ではあるのだが、実質の主役はお園役の中村時蔵丈と言ってよかろう。

    時蔵丈は、可憐な娘キャラ、剣術に長けたキャラ、虚無僧に扮した男装キャラなど、一つの役柄ではあるもののコミカルからシリアスまで演じ分け、彦三郎丈との殺陣では鎖鎌を手にするなど、かなりの活躍ぶり。彼は、舞台を見るたびごとに、芸が磨かれている気がする。
    菊之助丈も、爽やかで実直な好青年を好演していたし、二役の萬太郎丈は、出番は多くないものの、人間味あふれる若党の友平役が印象的だったし、お園の母親役の上村吉弥丈も、演技の幅広さが光っていた。
    彦三郎丈の悪役も、イケボをいかんなく駆使した魅力的なキャラを造形。彦三郎丈の遊び心がある感じの役づくりは、勉強になるし、かなり好きw
    あと、中村歌昇丈の次男・中村秀之助丈演じる、お園の妹の息子・弥三松(やそまつ)が、キュートで健気で、それゆえに物語に、より深みを与えていた。

    通しで上演されたことでエピソードが積み重なっていき、それが後々の場面や役柄に活きて、作品と役柄に深みがあった。
    また、二幕冒頭では、昨年度の流行語「裏金」「ホワイト案件」「50/50」「デコピン」などを盛り込んだセリフの掛け合いや、果ては「はいよろこんで」のギリギリダンスを黒御簾の演奏で披露。一連の掛け合いの最後には、「不適切にもほどがある!」で締めるという趣向も見せる。(ギリギリダンスが黒御簾演奏に意外とマッチするという発見w)

    舞台美術も、各場ごとに冴えていて、通常の歌舞伎の舞台で、ここまで惹かれたのは始めてかも。
    序幕の一つ「長門国吉岡一味斎屋敷の場」は大広間の造り方が良かったし、二幕の「山城国小栗栖瓢箪棚の場」は、立ち回りでの瓢箪棚が崩れる仕掛けが意表を突いて驚きがあった。三幕の「豊前国彦山杉坂墓所の場」は高低差をつけることで、峠の山道の感じがよく出ていたし、「毛谷村六助住家の場」は、物の配置のミザンスが色々と工夫されていたように思う。
    そして、最後の場面「豊前国小倉真柴大領久吉本陣の場」では、背景幕に海と水平線が描かれていたのだが、その海の波が、1枚の布に描かれているのにとても奥行きを感じさせる(海が、遥か向こうに続いている感がある)描き方で、それも良かった。

    惜しまれるのは、各場の転換が大掛かりゆえに、休憩以外でも定式幕が引かれ、転換に時間がかかっていたこと。歌舞伎座や国立劇場なら、盆を回転させるなどして、もう少しスムーズに見せられたのではないか、という気もする。

    少し長丁場な作品ではあるが、特に時蔵丈のファンにはオススメしたい作品。
    1階席前方なら、エンディングの手ぬぐい撒きで、手ぬぐいをゲットできるチャンスあり。


  • サルメカンパニー第9回公演『逆さまの日記』@下北沢 駅前劇場
    【2025/1/17 18:00〜20:40(途中10分間の休憩あり)】

    初サルメカンパニー。伊達暁さんと那須凜さん、近藤隼さんが出演しているということで観劇へ。
    とりあえず、とても面白かった。タイトルがダブルミーニングっぽく感じられてくる、泣けるラストも良かった。
    2作品同時上演のもうひとつ『ベイカーストリートの犬』も俄然、観てみたくなった(と言いつつ、観られないけど…)

    コナン・ドイルの『ボスコム渓谷の惨劇』と、江戸川乱歩の『探偵小説の謎』と、ピエール・バイヤールの『アクロイドを殺したのはだれか』を下敷きにしたオリジナル作品。作・演出は主宰の石川湖大朗氏(主要人物のひとりとして出演も)。
    下手端にバックバンド的に演奏エリアを配し、蓄音機からレコードの音が流れるシーン(何度か出てくる)の演奏なども担い、生演奏が必然的に感じられる使われ方だったのも良き。
    照明も美しく、あの狭い劇場にしては、いろいろと工夫されていたように見受けられ。
    休憩中も、幕間場面が繰り広げられ(聞いてなかったとしてもその後の観劇に支障はない)、休憩中と言いながら出演者が普通に舞台で演技を続けているのは、初めて見たかもw

    荒削り感はあるものの、ミザンスなど俳優の動かし方の演出が特に上手く、戯曲のどんでん返しぶりも上手く、サルメカンパニーのファン決定w
    作品のスケールが駅前劇場のサイズ感からはみ出してはいたが、「久しぶりに活きのいい小劇場を観た」感あり。
    (明日と明後日で終わりだが、行ける人はぜひ下北沢へ行ってほしい!)

    ★ここからネタバレあり★

    ひとつの殺人事件を現役を引退したシャーロック・ホームズが謎解いていくのだが、容疑者全員、何らかの嘘をついており、全てがひとりの仕業ではなく、いくつかの偶然が重なった上で起きた殺人であることが判明。
    ホームズの「ワトソン役」を担当していた、推理小説作家に憧れる医師のジョンが犯人だったと結論づけられる。ホームズは、ジョンの事情を考慮し、あえて警察に突き出すことはやめておくのだが、ジョンは自死し、エンディング…と思わせておいて、その半年後が描かれ、ホームズの推理がはずれていたことが判明する。
    殺人事件の本当の犯人は、自死した犯人の双子の姉ハリエットであり、そのことを、姉自らホームズに告げ、本当のエンディング。
    「逆さま」というのは、弟が事件の経過を綴った日記の書き方のことを指していたのだが、「真犯人は姉である」というニュアンスとしての「逆さま」とも受け取れる。

    シャーロック・ホームズ役の伊達暁さん、渋い声の感じとか、たたずまいとか、推理を進めていく理路整然とした語り口とか、とにかくすごくハマり役で、ほかのホームズシリーズを演じている姿も見てみたくなる。ラストで、真犯人から真実を聞いている時にかすかに潤んでいく瞳も印象的。
    姉のハリエット役で真犯人の那須凜さんも、姉御肌的に接しつつも、常に弟を想う気持ちが伝わってくる良い芝居。何度か、ギターを弾きながら歌う歌声も印象的。ホントに、母親の那須佐代子さんとはまた違うタイプの素敵な女優さんに。
    弟役は石川湖大朗さん、彼もとても良かった。姉が殺したことを知っていた上で、姉に疑惑の目が向かないよう自らミスリードを仕掛け、自分が犠牲になることも厭わなかったのかなと思わせるような、そういう塩梅が非常に上手い演技だったと思う。端正な演技が印象に残る。
    このメイン3人がめちゃくちゃフィットしていたことで、作品全体の強度が増したように思う。

    あと、警部役の園田シンジさんも、前半の、客席を温めるようなコミカルなポジションを担い、良い仕事ぶり。
    近藤隼さんは、殺害される役だったこともあり、出番がわりと限られていたのが残念だったけど、エンディングでの真犯人の告白場面で、ハリエットに声を荒げる豹変具合が印象的。
    (とにかく、メイン3人が名優ぶりすぎて、他の出演者も上手いんだけど霞んだ印象はあり)

    あぁ、もう1回観たいw
    っていうか、僕、アガサ・クリスティとか今回のとか、いわゆる探偵モノが好きなだけなのか?w