観るのも演るのも日々是好日!

演劇界に生きる男の観劇記録

SPAC-静岡県舞台芸術センターで俳優やってます!

倉敷幼稚園→粒江幼稚園→粒江小学校→倉敷南中学校→総社南高等学校→大阪教育大学

関心あるモノ・コト = 演劇/LEGO/昭和歌謡からJ-POP/字を書くこと/フィギュアスケート鑑賞/温浴施設めぐり/乗り鉄/旅行/睡眠

  • 劇団山の手事情社『葵上』@小劇場B1(下北沢)
    【2026/3/3 19:00〜20:20(途中休憩なし)】

    劇団と劇団員たちの「美学」が咲き乱れていた。きちんと訓練し養成された身体感覚や、追究された発語と言葉は、老舗の一流旅館のおもてなしのようでもあり、客席に身を置くことに幸福感をもたらしてくれる。

    能の『葵上』と『野宮』、源氏物語の『葵』の巻、瀬戸内寂聴の『女人源氏物語』などをベースにまとめられ、「葵上オムニバス」的な一面もある上演に。ただし、中心線となるのは「六条御息所」の情念と怨念。(著作権の問題のためかどうかは不明だが、三島由紀夫の近代能楽集『葵上』や唐十郎の『ふたりの女』などの派生作品はあえて取り上げず)
    また、活動休止前の最後の本公演ということで、劇団活動の集大成的な面も含まれていたようにも見受けられたが、劇団員総出演とはなっておらず、今回の上演会場の規模からしても、(詳細は不明だが)活動休止を最初から見据えて設定された公演というわけでもなさそうではあった。

    活動休止もあってか、出演者全員に何らかの見せ場(自身がメインとなる場面)があり、そこが良くもあり悪くもあり。
    一つの役を、数人でリレーする形になっており、役柄のイメージが偏って固定されることなく多層的に浮かび上がる良さがあった。特に、「光源氏」は、観客それぞれにイメージする人物像が(ビジュアル的な部分も含めて)違うだろうから、1人に固定しないことが功を奏していたところもある。
    その反面、「六条御息所の亡霊」役の山本芳郎さんと「旅の僧」役の川村岳さんだけが入れ替わらない役となっており、しかしこれとは別に「六条御息所」役も複数人持ち回りで登場したことで、作品のフォーカスが少しぼやけた印象になったのも否めない。端的に書くと「ドラマを描きたかったのか、人物を描きたかったのか」みたいな。
    そして、創り手の「やりたいこと」「見せたいこと」が詰め込まれすぎていた印象もあったのだが、活動休止前のラスト公演である事を考えるならば、お祭り騒ぎ的になることなく最後まで作品創造に真摯に向き合っており、むしろ潔くあっさりとしていたようにも思えてくる。

    作品全体の構成としては、やや難解な面もあるが、文語体と口語体を上手く組み合わせたり、役柄の衣裳が分かりやすくなるよう演出的に処理するなど、見やすくなる工夫は随所に見られた。
    衣裳のデザインと布地の質感、髪飾りを含むヘアメイク、光と影を活かした照明などは、「こちらが美しいと思うものを提示」してくれ、様々な面で「美」を味わせてくれた。衣裳さばきの上手さも然り。ポージングのフォルムも然り。
    特に、女優陣が皆、麗しい。ビジュアル的にという意味にとどまらず、佇まい、見せ方、表情、セリフなど、どの演者も「おおっ!」と思わせる瞬間が何度もあった。男優陣は初日ということもあってか、全体的に少し力みも見られたが、しかしこれは、回を重ねると落ち着くものと思われる。

    作品そのものは、まだ削り出したばかりの原石のようでもあるが、そこに「劇団としての信念と歴史」が確かに感じられ、観ていて清々しい公演だった。見届けられて良かった。


  • ご訪問いただき、ありがとうございます。

    岡山県出身で、普段はSPAC-静岡県舞台芸術センターで俳優や制作スタッフとして活動している永井健二と申します。

    これまで自身のFacebookで観劇の記録を投稿していましたが、「何十年分の過去の観劇記録も、過去の日付で残せたらいいのになぁ」と常々思っており、このたび思い切って「観劇記録のブログ化」を実行に移すことにいたしました。

    https://www.facebook.com/share/1Dhfj11J8Y/

    Facebookにもこれまで通り投稿を続けますが、このブログのほうには、(可能な範囲で)上演記録的なものも書き加えていきたいと考えています。

    完成するのはかなり先になりますが、最新記事はそのつど投稿して参りますので、どうぞ気長に、ゆっくりと、お付き合いください。

  • MONO 第53回公演『退屈忍者』@吉祥寺シアター
    【2026/2/28 14:00〜16:00(途中休憩なし)】

    いわゆる、徳川家綱の治世の「時代劇」ではあるのだが、それをMONO流の会話劇で見せていく。
    尾方宣久さんが退団して初めての公演。尾方さんの存在感というのはなかなか絶妙なものがあって、彼を欠くということが、それなりの痛手になるのではないかと危惧していたのだが、上手くかわしたというか、不在が活きる設定になっていたように思う。
    全体の芝居運びとか、細かい設定とか、個人的に気になるところは多少あったものの、何より、尾方さんの「不在」を全くと言っていいほど感じさせない作品に仕上がっていたのが、驚きでもあり、さすがでもあり。

    「忍者」がさほど必要ではなくなった時代という設定で、頭の忍者である伴正信(奥村泰彦)、正信の姪で同じく忍者の静尼(高橋明日香)、甲斐国から流れてきた忍者の茂助(水沼健)と吉兵衛(金替康博)、元スリで今は忍者のお久(立川茜)。彼らは、普段は村人にカモフラージュしながら、細々と忍者を生業としている。
    ここに、村の名主である又五郎(渡辺啓太)と、その妹のお貞(石丸奈菜美)、正信たちを忍びとして雇用している代官(土田英生)が加わる。
    しかし、正信とお貞は、許されない恋仲にも関わらず、駆け落ち、心中未遂まで起こすという展開に。
    このほか、代官の家臣(実は謀反者)、村の年寄衆などが、セリフ上で頻繁に登場し、物語における登場人物はわりと多い。
    やがて、今風に言えば「フェイクニュース」に、皆が翻弄されていき、正信たちは戦うことに…

    なお、10年前までは、名が知られた忍びだった正継(正信の弟)が率いていたのだが、正継は病死し(静尼は正継の娘)、正継が亡くなったことにより、彼を慕っていた忍者が大量に離脱したという設定になっている。
    この「正継」が、「もしかすると尾方さん!?」とも思え、正継亡き後も忍者を続けている登場人物と、尾方さん退団後も劇団を続けている俳優たちが、妙にオーバーラップしているようでもあり、感慨深い。

    また、これまでは割と「空気が読めない、面倒くさいウザキャラ」を担うことが多かった奥村さんが、今回はかなり二の線の役柄を好演しており、これも新たな発見。
    その一方で、劇団員たちの持ち味を存分に活かしたキャラ設定と展開も健在で、改めて、土田さんの筆力の底力も感じられた。

    尾方さんの不在を乗り越え、新機軸も打ち出しつつ、これまでの良さもそのままに。そういう作品を生み出したMONOの頼もしさたるや!
    若手4名も着実に力をつけており、もはや、演技面では古参メンバーとの差がかなり少なくなっている。特に、高橋さんの、作品における屋台骨感は感動的ですらある。

    ただ、ラストに向かう展開(「じゃあ戦うことにしますか」みたいな論調とか、「忍者って言っても忍者らしいことしてないし…」みたいな意見が出るとか)が、若干、平田オリザさんの『忠臣蔵』的ではある…(笑)
    あと、かつてよく見られた「テンポよく、ドライに応酬される会話」は、最近は新作ごとに影を潜めつつある気がする。わりと普通の新劇風になってきたというか。そのあたりは、古参メンバーと若手とで、差があるところなのかもしれない。(そこを検証する意味でも、『—初恋』とか『きゅうりの花』あたりの再演を観てみたい気はする)

    舞台装置は「からくり仕掛けの2階建ての寺の本堂」で、全体の配置やバランス、意匠、規模感などが絶妙で、観ていてワクワク。特に、1階と2階の使い方や使い分けも上手く、舞台装置も脚本を後押しする力となっていた。
    (終演後は舞台写真の撮影OK)


  • 公益財団法人せたがや文化財団『黒百合』@世田谷パブリックシアター
    【2026/2/10 14:00〜16:45(途中20分間の休憩あり)】

    1899年に新聞連載された泉鏡花の小説を、藤本有紀氏が脚本化。演出は杉原邦生氏。『天守物語』や『夜叉ヶ池』などにも通じるモチーフやエピソードがあったり、自然と人間との関係性が描かれるなど、いかにも鏡花らしい作品と言える。
    舞台は非常に意欲的な仕上がりで、心意気は伝わってくるし、実際の観客の満足度も高そうではある。
    脚本(藤本有紀)、演出(杉原邦生)、ステージング(下島礼紗)、音楽(宮川彬良)、美術(堀尾幸男)、衣裳(西原梨恵)、演技(出演者)、それぞれ単体では、どれも悪くない。むしろ、各セクションは非常に良い仕事をしていると思う。

    しかし、組み合わせがベストではなかったかも。たとえば、「この脚本でいくなら、演出や演技はもっと違うほうが良いのでは?」みたいな感じで、各セクションの相性の居心地の悪さみたいものを感じてしまった。これは、自分が演じる側、作品を生み出す側だから、余計に、ちぐはぐに感じられてしまったのかもしれない。
    或いは、以前に「修復に失敗して物議を醸したフレスコ画」が話題になったけれど、ちょっとあれに通じるところもあり、作品全体が「大胆で強引な力技」でまとめられてしまったようにも見えた。(もしくは、「中国オリジナルの国産テーマパーク」と聞いたときのイメージのような、細部が気になる粗削り感と間に合わせ感と、全体のカオス感)

    この「力技」感に関しては、場面転換の多さに起因する部分もあると思う。とにかく場面が多い。そしてそのたびにとっかえひっかえ、舞台上の設えが人力で変わる。(暗転になった時の舞台上の場ミリ蓄光テープは、星空のようですらあった)
    座敷の場面のユニットに立てられた柱は寄りかかると微妙に揺れ、滝の場面にはビニールラップで表現された滝と滝つぼが現れ、洪水の場面では細細いビニールラップを俳優たちが上手と下手で持ち、波布のように揺らすという手法が取られ、良くも悪くも学生劇団のような手作り感と、そこはかとなく感じられるアングラ感。
    そして、ラストの、山が2つに割れて現れる画質が荒い北斎の大波しぶきと、文化祭のクラス劇の大道具のような船の装置には、心のなかで「えええええーーーー!?」と叫び…(笑)

    魑魅魍魎的な自然界の存在は、出演者たちが下島礼紗氏のステージングで表現。身体表現としては面白いのだけど、ちょっとおちゃらけの方向に戯画化しすぎたというか、鏡花の世界から現れ出たものの感じには欠けたかも。
    演技(語り方や身体性など)も、全体的には現代寄りで、大正時代感に欠け、ならば、脚本ももう少し現代寄りにアレンジすれば良かったのに…とも。
    音楽も、大正時代からはあえて狙って外したようにも思うが、ならばもっと現代に寄せても良かったのでは?とも。

    長くなってしまったが、きっとつまり、戯曲以外の各セクションが、現代の感覚に少し寄せ過ぎてしまっていたのだと思う。しかも、それぞれがプロなだけに、横のセクションとの繋がりや関連性みたいなものよりは、「自分が作品から受けたインスピレーション」のほうを大切にして、各セクションから提出されている感じ。
    それにより、いわゆる「鏡花的な感覚・世界観」の根っこの部分からは離れてしまい、「鏡花をモチーフにした現代劇」に変容していたのだと思う。
    脚本が上がった時点では、鏡花の世界観を写し取った作品だったと思うのだが、立ち上がっていく過程でだんだんと現代性が勝ってしまい、結果、鏡花からは離れてしまった感じ。なのに、語られる言葉はかなり鏡花に忠実なため、何とも言えない違和感が残る。

    出演者も、単体では上手い人が多かったと思うのだけど、「鏡花の世界観(鏡花の言葉を語る)」という点では、成功していたのは若山拓(ひらく)役の白石隼也さんと、白魚のお兼役の村岡希美さんくらいかも。
    (とは言え、白石隼也さんは役柄的に現代っぽく演じにくい役どころだったのと、村岡希美さんは「気風のいい江戸っ子の姉御」という現代でも通じる演じやすさがあったとは思う)

    劇場の機構をふんだんに使い、見応えがあることは確か。現代にも通じるテーマ性もある。
    ただ、泉鏡花というジャンルが、演劇で表現するにはなかなか手強いということもまた、改めて浮き彫りになった気がした。


  • トータルステージプロデュース『サド侯爵夫人』@紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
    【2025/1/28 13:30〜15:40(途中休憩なし)】

    三島由紀夫の傑作にして難易度の高い戯曲を男優6人で。演出は宮本亞門氏。上演時間は2時間ほどに収められ、多少セリフが刈り込まれていたような印象も。

    コロッセオ風なパルテノン神殿を連想させる8つの円柱と、八百屋になったドーナツ状の円形ステージ。ルネ以外の衣裳も含め、舞台装置は黒を基調としたコーディネート。
    舞台装置に関しては、SPACで2001年に上演された、原田一樹演出・朝倉摂舞台の『サド侯爵夫人』が、白を基調としたものではあったが、同じような、神殿風の円柱と円形の舞台装置で、今回と似ている印象。

    衣裳は、ルネ(成宮寛貴)はシンプルで装飾の少ない白いドレス。モントルイユ夫人(加藤雅也)は若干パリコレ風なデザインを思わせる黒いドレス。シミアーヌ男爵夫人(大鶴佐助)はレース使い(だったと思う)の黒いドレス、サンフォン伯爵夫人(東出昌大)はややボンテージ風でSM女王を想起させるような黒いドレス。アンヌ(三浦涼介)は漫画『NANA』を彷彿とさせる露出多めの透け素材やショートパンツスタイルの黒い出で立ち。シャルロット(首藤康之)は露出少なめのシンプルな黒のドレス。(衣裳デザインは、ツグエダユキエ氏)

    成宮さんは、ブランクのせいか、或いは、元々の演技スタイルのせいか、セリフを喋る時に身体から漏れ出る割合が多く、言葉を聞き終わる前にその時の感情や感覚のほうが先行して見えてしまうのがもったいない。(たとえば、手や上体に、セリフを言う時の反動が出てしまい、身体が先にセリフを喋ってしまう)
    あと、3幕の晩年を演じるには、まだ少し若すぎたかもしれない。
    ラストでは、着ていた衣裳を全て脱ぎ、バックショットながらフルヌードで光射す舞台奥へ消えていく。ルネがしがらみを一切脱ぎ捨て、裸一貫で自分の人生を歩き出す…という解釈なのだろう。しかし、鍛えられた若々しい肉体美をさらけ出すために、成宮寛貴としての芸能活動再開への決意表明的にも映ってしまい、「それまでのルネはどこへ?」という感じがしなくはない。

    東出さんは、マイク無しでは厳しい声量の喋り方で(おそらく、大声で喋ることもできるのだろうけど、あえてあまり声を張らない喋り方にしていて、結果的にマイク声感が強くなっていた)、1幕では「ちょっとどうなの?」とも思ったのだが、まあ、役作り自体は悪くなく、2幕のミサの祭壇の告白の場面では、巻いていたショールを脱いで上裸になり、神秘的でエロティックな場面に仕上がってはいた。
    あと、その場面、舞台後方でセリフの内容を再現するかのように、別の俳優(おそらくは、大鶴さんと首藤さん)が実演していて、これが効いていた。

    三浦さんは、若い時の広田レオナか加賀まりこか、というようなコケティッシュな存在感で、これまでに見たアンヌ像の中で、おそらく群を抜いて「奔放で刹那的な造形」だった。(三島の文体のせいで、アンヌ像を誤解していただけなのかもしれないが(笑))
    「アンヌはこれくらい振り切ったキャラクターのほうが良いのかも」と思わせる魅力があり、良くも悪くも、三浦さんが登場すると全てをかっさらっていった印象。

    大鶴さんが、女性にしか見えない雰囲気で、「美徳」「母性」を体現する好演ぶり。東出サンフォンとの対比としても、かなり成功していたと思う。

    加藤さんは、3幕ではかなり男性感(親父感)が強くなっていて、これはこれで面白い仕上がりだと思った。

    首藤さんが、ちょっともったいない使われ方で、もっとコミカルな使い方とか、もっと身体表現で見せる場面があるとか、そういうのを期待していたのだが、彼を起用した良さがあまり活きていなかったようにも見えた。悪くはなかったのだけど。

    全体としては、真摯に戯曲に向き合っている感じは伝わってくるし、話題先行な感じのキャスティングだが、自身のキャリアに甘んじない感じで演じていて好感は持てる。やや癖っぽい演技ではあるけれど。
    ↓ゲネプロのダイジェスト映像↓(まあ大体この通り)
    https://youtu.be/F7ErWbvgGfY?si=4qeLsG3bmp4yOz51

    迷っているなら、観て損はない感じ。(ただ、絶対にオススメ、と言うにはチケット代が高すぎる気はする…)


  • 二兎社公演49『狩場の悲劇』@紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
    【2025/11/13 18:00〜20:45(途中15分間の休憩あり)】

    アントン・チェーホフが若い頃に書いた長編推理小説を、永井愛氏が脚色・演出。原作のメタ的な二重構造を発展させ、三重構造へ昇華した(ある意味「大どんでん返し」な)結末が見事で、ミステリー好きにもチェーホフ好きにも演劇好きにも、幅広く受け入れられる作品へと仕上がった印象。

    原作のストーリーは、ある裕福な伯爵の田舎の領地を舞台に、その領地に住んでいる森番の美しい娘オーレニカ(原田樹里)をめぐって、彼女に惚れ込んだ執事ウルベーニン(佐藤誓)、 領主である伯爵アレクセイ(玉置玲央)、伯爵の友人で予審判事セルゲイ(溝端淳平)、この三人の男たちが三つ巴となり、四角関係の恋愛模様を描いた作品で、最後にオーレニカが何者かに殺されてしまう。
    この顛末をセルゲイは『狩場の悲劇』という小説に書き、それを編集者の元へ持ち込んでいたのだが、「まだ読めていない」と言われたために、セルゲイは編集長(亀田佳明)に小説の内容を勝手に語りだし…という叙述トリック作品になっている。
    この原作世界を活かしたまま、永井氏はさらにオリジナルな解釈やチェーホフの他作品も使いながら、「よりチェーホフ的」にまとめ上げている。

    舞台は、ある編集長の仕事場である、書斎的な設え。おそらく下手前に部屋の出入口があり、上手前は奥の部屋へ続いていると思われる造り。多岐にわたる場所設定の、すべての場面がこの書斎で繰り広げられていく。
    舞台奥は書斎の壁という設定ではあるのだが、実際の壁はなく、書斎へ自由に出入りできる階段上の舞台があり、そこが、現実と想像世界を行き来するための出入り口になっている。
    この舞台美術、地味な造りではあるが、部屋の向こう側とのシームレスな連続性を生み出すことに成功していて、柱の位置や天井の高さなどもよく計算されている。

    戯曲と俳優がかっちりとハマった感じで、観やすく、聴き取りやすく、テンポも良い。登場人物たちの人物造形も非常に上手くいっている。
    ミステリーでもあるし、タイトルに「悲劇」と付いているにも関わらず、舞台はわりと喜劇的で、登場人物たちは大真面目に怒ったり泣いたりしているのに、そのさまが観客から観ると非常に可笑しく、「泣いている場面なのに客席からは笑いが起きる」みたいなことが多々あった。

    物語(セルゲイが書き起こした小説)は、セルゲイが語り手でもあり中心人物でもあり、セルゲイ役の溝端淳平さんが主役なのだが、実は、編集長の亀田佳明さんこそが、最終的な主役であった。
    ちなみに原作では、編集長は最初と最後にしか登場しないらしい。

    亀田さんは、聞き役(観客と同じ目線の立場)でもあり、舞台全体の狂言回し的なポジション(実は小説を既に読んでいた)でもあり、小説部分がラストまで到達したあとは、「セルゲイが真犯人である」と追い詰めていく検事のような役回りも加わり、ラストではチェーホフ自身であることが発覚して、「実はセルゲイまでもが、いち登場人物に過ぎなかった」という種明かしがなされ、チェーホフのモノローグで終幕する。
    この、「編集長は、ただの編集長でも、真実を読み解いた読者でもなく、書いた側のチェーホフだった」ということが明かされるところからラストの展開が、かなりの衝撃波となって客席へ届き、こと作家のように「物事を生み出す立場の人間」には影響があまりに大きかったのか、「ハッキリとした理由が見つからないまま、でも、普遍的な何かが感じられ、涙があふれてくる」という、ショック療法のような体験をした。永井愛氏に完敗w

    亀田さんの演技や役の捉え方も、とても良かったのだと思う。ある意味で上手く観客をミスリードさせ、またある意味では観客に寄り添った立ち位置で、「翻弄される純粋な存在」を体現し、でも、それすらも演技だったわけで。
    全編ほぼ舞台上にいて、要所要所で突っ込んだり茶化したりしながら、ストーリーの進行を常に見続ける存在。
    しかも、(そうせざるを得ない状況ゆえに、咄嗟の判断的に)犬や猫に扮する亀田さん、真犯人を追及し真実に迫っていく亀田さん、チェーホフとしての苦悩や孤独や虚無感を漂わせる亀田さん…と、亀田佳明という俳優の多才さ&多彩さをたっぷりと目撃でき、亀田ファン必見の舞台となっている。

    セルゲイ役の溝端淳平さんも、非常に舞台向きな俳優で、セリフは明晰だし、立ち振る舞いは美しいし、演技にムダが無い印象を与えてくれる。
    セルゲイもまた振り幅の大きい役なので、溝端さんの引き出しの多さを堪能できる。

    伯爵アレクセイ役の玉置玲央さんも、相変わらずのセリフの明晰さと華やかさ。役柄としてはクズ男系の部類に入ると思うのだが、チャーミングな愛すべきキャラに造り上げた手腕は評価に値する。
    そして個人的には、「演劇の神様に愛された俳優」だなと改めて思った。

    召使いクジマ役のホリユウキさんも、ちょっと裏表がありそうなクセキャラを好演。切り揃えた前髪も役柄に合っている。コメディからシリアスまで、柔軟に対応できそうなポテンシャルも感じられ、今後が楽しみ。

    片言で会話するカエタン役の加治将樹さんも、ただの面白キャラで終わらせず、サイドテーマ的な部分を担う存在として好演。

    セルゲイを想い続けるナージェニカ役の大西礼芳さんは、本人の実力からすると予想通りの好演ではあったが、本音と建前みたいな二面性が、もう少し色濃く出ても良かったのかも。

    そして、門脇麦さんの降板により、初日3日前に登板となったオーレニカ役の原田樹里さんは、物語の進行に合わせて可憐な少女から恋多き魔性の女へと内面がどんどん変化していくような、かなり準備に時間のかかりそうな役柄を大奮闘で好演。役柄への馴染み具合という観点だと、いまだ発展途中という感じでもあるが、決して見劣りすることはなく。
    初めのうちは少し硬さが感じられ、少しギクシャクするような印象もあったが、舞台が進むにつれ(内面が変貌していくにつれ)、「あの心優しい少女がどうしてこんな傍若無人な態度の女性に!?」と観客に思わせ、共演者とも対等に渡り合う安定感が感じられた。

    良くできた作品で、エンタメとしても楽しめるし、演劇ファンとしてもくすぐられるポイントが多いし、老若男女を問わず、見応えのある舞台だと思うので、多くの人にオススメしたい。ミーハー気分で観ても、たぶん満足できるw
    (オーレニカ役は、長野以降は川添野愛さんにバトンタッチ)


  • 手話のまち 東京国際ろう芸術祭/日本ろう者劇団×デフ・パペットシアター・ひとみ×カンパニーデラシネラ 共同創作プロジェクト『100年の眠り』@座・高円寺
    【2025/11/8 18:30〜19:30(途中休憩なし)】

    セリフ無し、音楽無しのノンバーバルな作品。無音のなか繰り広げられる、60分の身体パフォーマンス。グリム童話の『眠り姫』から着想を得ているものの、無言劇ともちょっと違うし、コンテンポラリー系のダンス作品とも違うしで、「聾者を中心とした、ダンス演劇的な無音パフォーマンス」といったところ。
    「眠る」という行為は舞台上でも行われるが、『眠り姫』的な要素はあまり見当たらなかった印象。

    座組が、文字通り「老若男女の集まり(8人)」という感じなのがとても良い。三世代くらいの家族のようにも見えるし、小さな社会コミュニティのようにも見える。
    なかでも、まだ少女な守屋水結さんの存在が、この作品にとってはとても重要だったと思う。
    個人的には、スキンヘッドの雫境(だけい)さんの、ユーモラスとシリアスのバランス感覚が絶妙な存在感と、それゆえのカッコ良さも、印象に残った。
    小野寺さんと崎山さんのデラシネラコンビは、もちろん言うまでもなく。(崎山さんの、「感情を簡単には表に出さない」感じの「スッと居る」存在感もメッチャ好き)

    パネル代わりも兼ねている4枚の細長いレールカーテン、ラジコン操作で出てくる汽車、動きの中で主軸の人が入れ替わっていく演出、影絵、ゴム、懐中電灯、見立ての小道具、風に立ち向かう動き…など、これまでのデラシネラで親しんできた演出や道具類がたくさん投入された舞台になっていて、スタッフワーク的な技術面においては、これまでの路線を踏襲してきたような印象。
    なので、「本作ならでは!」みたいな部分は、聾者が演じていること以外には、今回は特に見当たらなかったと言える。

    逆に、聾者が演じることで、普段ならやっているであろう、呼吸の音や舞台上の動作音などでは動きを揃えることができないため、出演者たちは視覚情報に頼らざるを得ず、動き出しや転換のタイミングが、健常者での舞台に比べるとほんの少しだけ遅い気がした。(そのせいか、今回の舞台のほうが、全体としてゆったりとした時間での進行にも感じられた)
    また、「何が行われている場面なのか、よく分からない/分かるのに時間がかかる場面」が何回かあり、そういう時にも無音なので、見ている集中がちょっと切れかけてしまうことはあった。

    作品自体のクオリティは決して低くないとは思う。
    が、じゃあ「同じ作品を健常者だけでパフォーマンスしたらどうなるか」と言われれば、今回のものとそこまで大きな違いはなさそうで、「聾者だからこそ観ることができる舞台」とは少し違ったかな?という感じ。
    「聾者が聾であることを感じさせない作品に仕上がっている」という意味では、非常に意義がある舞台ではあると思う。


  • ヒラタオフィス+TAAC『金魚の行方』@サンモールスタジオ
    【2025/11/8 13:00〜15:00(途中休憩なし)】

    引きこもりの青年とシングルマザーの母親、自立支援センターの所長と家出少女だった職員、母親の年下の彼氏、青年の姉的な存在の幼なじみ。
    6人で繰り広げられる、引きこもりがテーマの本作は、iaku(横山拓也)とserialnumber(詩森ろば)を足して2で割ったような作風。少しコミカルなところもありながら、でも作品的にも登場人物的にも、重くウエットで。

    劇中で、モチーフやエピソードとして意味を持つものを順不同に挙げると…
    自然界では生きられない金魚、その金魚が居なくなった水槽、引きこもって壁を叩いて行う会話、水たまりバシャバシャ、マクドのポテト、落とし物の伝書鳩、うたた寝している人に毛布を掛ける優しさと起こす優しさ、子どもたちに身を食べられながら敵と戦うハサミムシの母親、家出した猫のリサ、世界の極地である自立支援施設、転落死した施設利用者…など。

    そのほかの細かいエピソードに至るまで、最終的に作品の世界観に重なり合っていく秀逸な戯曲(タカイアキフミ氏の書き下ろし)。戯曲上での「金魚」の扱い方(取り上げ方)も実に上手い。
    一方で、ハッキリとは明かされないエピソードもいくつか出てくるのだけど、解明されないことはあまり気にならず、そう感じさせる処理の仕方も良かった。
    演技も、皆、地に足がついた感じというか、「……。」的なセリフの見せ方(仕草だったり、表情や目線だったり、微細な身体の反応だったり)が上手い。沈黙がちゃんと言葉になっていると言おうか。

    部屋の一室が舞台装置になっているのだが、これが、室内に置かれている金魚の水槽を大きくしたようにも見え(つまり、大きな水槽の中に、本物の水槽が置かれているような感じ)、この部屋の住人たちもまた、「世話をされないと生きてはいけない」金魚みたいな存在であることを想像させる。

    主演の枝元萌さんの演技が以前からすごく好きで、今回も、期待を裏切らない良い芝居を見せてもらった。毒親なのに、「あんた100%間違ってるよ!」とも言い切れない人間味があって、その丁寧な役作りに感心。
    息子役の木村聖哉さんも、彼の心の中の葛藤や不安が透けて見えてくる、みずみずしい良い演技で、この親子の、演技や会話における互いの想いの駆け引きだけでも観る価値があるだろう。

    ひとつ惜しかったのは、玄関ドアの裏側(観客に見えない側)が大きく開いた時に、大半の観客には見えていないのだが、客席の上手端からは少し見えており、それなのに材がむき出しになった造りで、それが見えるたびに現実に引き戻されてしまった感じがして、できれば裏面もドアの加工をしてほしかった。

    テーマは重いし、観劇後もモヤモヤ感を少し引きずるタイプの舞台かもしれないが、地味ながらも手堅く丁寧な「知る人ぞ知る郷土銘菓」みたいな味わいで、そういうのが好きな人には特に観てもらいたい作品。11月16日まで新宿のサンモールスタジオにて。


  • EPOCH MAN『我ら宇宙の塵』@新宿シアタートップス
    【2025/10/30 14:00〜15:40(途中休憩なし)】

    2年前の初演がとても良くって、再演も観劇。大きな改編は無かったように思うが、「死んだ父親の最期を辿る」という設定が無くなっていた?かも。
    あと、出演者たちが2年を経て、演技にパワーアップ感が見られた。池谷のぶえさん、やっぱり素敵すぎる。

    ↓初演時の感想はコチラ↓
    https://nk-theatergoer.com/2023/08/11/epoch-man%e3%80%8e%e6%88%91%e3%82%89%e5%ae%87%e5%ae%99%e3%81%ae%e5%a1%b5%e3%80%8f%ef%bc%a0%e6%96%b0%e5%ae%bf%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%83%88%e3%83%83%e3%83%97%e3%82%b9/

    初演時と感想に大きな違いはないが、今回のほうが、より泣きながら観てたかも。星太郎が、死んだ人たちがどうなるか納得できる結論を自分で見つけた、その説明の場面がやっぱりとても良くって。

    今年は、東京公演のあと全国ツアー(大阪、福岡、金沢)も。


  • 第22回 静岡県中部高等学校演劇研究大会 秋季公演@藤枝市民ホールおかべ
    【2025/10/26 13:00〜17:30】

    いわゆる「静岡県の高校演劇の中部地区大会」。初日の25日は駿河総合高校1校のみの上演で(他業務あり未見)、2日目に4校が発表。5校のうち2校が県大会に出場できるという、東部や西部に比べるとかなり条件の良い地区。
    2日目の4校の感想を簡単に。


    13:00~14:00 静岡市立高等学校
    『廃駅にて』作/月端よつば

    生徒創作。進路のことをきっかけに喧嘩してしまった高3の女子高生2人。廃駅となったホームで、それぞれがたまたま出会った人と会話を交わすうち、自分を見つめ直し、仲直りに至る…というストーリー。ストーリーのプロットについては、若干、ありがちなところもあり、そのあたりが練られればもっと良くなりそうな気配。
    「廃線」ではなく、あくまで「廃駅」らしく、貨物列車はたまに通るという設定。舞台装置に貼られたかつての時刻表だと、客車は数時間に1本という本数の路線らしく、静岡まで7時間くらいかかるというセリフもあり、東北か中国地方あたりの秘境路線っぽい雰囲気…のわりに、主人公2人の価値観は、そこまで秘境路線に住んでるっぽい雰囲気はなく、少し違和感。
    冒頭の「神社の境内」という設定と「神主」とのやり取りが悪くなかっただけに、この設定が後半で完全に消し去られてしまった状態になったのがもったいない。あの神主さん、もう1回ラストとかに出てきてほしかったのだが。「廃駅の近くに神社があり、廃駅の掃除も神主さんがボランティアでやっている」とかの設定でも良かったのかも。
    廃駅に唐突に現れる「車掌」の存在がかなり謎で、そのあたりの脚本への書き込みがもっとあっても良かったか。
    演技面や滑舌面での課題も見られるものの、俳優たちの素材は悪くない。上手く使えば、上手く活きそう。
    無音での暗転が何度かあったのももったいない。蝉の声などのSEでも入れれば良かったのに。一方、着信音やスマホカメラのシャッター音などは、会場のスピーカーから流れると少し興ざめするような点でもあり、その処理にも一工夫欲しいところ。


    14:10~15:10 静岡県立静岡東高等学校
    『毒を持った少女たち』作/浅岡美吹

    昨年の創作劇脚本コンクールで入賞した、静岡高校の生徒の作品。自殺サイト主催者のレナには、妹を死に追いやってしまったという負い目があり、サイトを見て集まった自殺志願者たちが山奥で集団自殺を試みるものの、レナは、毒と睡眠薬をこっそりと入れ替えて渡し、自殺志願者たちに生きる意欲を与えていた。そんなある日、いつものように志願者が集うのだが、その中のひとりが、レナの妹らしき人物に会ったという発言を聞いたことにより、レナ自身が自死を決意。青酸カリを服用するも、最終的に一命をとりとめ…というストーリー。
    トモが、その後、医者だらけの家族たちとどう向き合って、どう立ち直ったのか、もう少し描かれていても良かったか。(万引き犯として追われていたのはどう解決したのか、とか)
    おそらく原作は全員女性なのだと思うが、今回はそのうちのひとり「アカ」を、男子部員が「性別不詳」な中性的な感じで演じており(もしかしたら男性として演じていたのかもしれないが、はっきりとは断定できないような雰囲気でもあり)、それが意外と良かった。
    猫が登場して「洗剤の袋をかじって中身がこぼれる」という部分は、「何となく猫は舞台上に登場したものの客には見えない」的な演出になっていたが、どう処理すべきだったのか、難しいところ。
    出演者は総じてセリフが明瞭で、癖っぽい演技もあるものの、悪くはない。脚本と演技アドバイス次第で、もっと良くなりそうな雰囲気は感じられた。


    15:20~16:20 静岡県立清水南高等学校
    「放送室物語」作/清水南高校演劇專攻生
    (翻案・泉鏡花作「天守物語」)

    「天守物語の富姫と図書之助が現代に転生」というプロットの劇中劇を練習する高校生たち。一方で、現実は絶妙に『天守物語』の世界とリンクする展開を見せる。エヴァンゲリオンも(たぶん)ちょいちょいリンク。そして、現代に転生した富姫役であるスズナと、図書之助役であるミレ、ふたりの孤独や悩みを、互いに癒し合うような友情物語の一面も見せる。全編生演奏。
    リアルとフィクションのあわいを行くような演出と演技は、作品世界に上手くハマっていたと思う。おそらくセリフの分量は、他校の1.5倍くらいあったように感じられたが、皆、淀みなく簡潔に語ることで、芝居のテンポ感とメリハリを生むのに繋がっていた。登場人物たちの愛すべきキャラクター設定も多く、部員の個性が良い意味でバラバラに見え、作品に奥行きが生まれた。
    何より、16名という部員数の多さが、登場人物の多彩さに繋がり、他校と比較にならないほど、活気やエネルギーが舞台上にみなぎり、ホールの広さも、むしろ狭く感じるほどで、人数の多さによる効果で、他校演劇部を一歩も二歩もリードしていたところは否めない。昨年の『しんしゃく源氏物語』から倍増しているわけだが、人数が倍になったことで、できることは4倍くらいになっていた。
    課題としては、声量があるが故に、声量の残響に自身の言葉が負けてしまっている出演者が何人かいたところ。もっと粒立てて語るか、もっと声量を抑えて語ると良かったかも。メイン2人は張らない発声でも充分言葉が届いていたし。しかし、まくし立てる系のセリフをどう聞かせるか(あるいは聞かせるところと勢いだけを伝えるところとの取捨選択)は、プロでも難しいし、劇場によっても変わってくるのでなかなか厄介。
    身体的には、他校に比べると圧倒的に身体の癖が少なく、首や腕の無駄な動きは、ほぼ見られなかった。
    タイトルが『放送室物語』である必然性が少し欠けていたかな。セリフには「放送室」が出てきて、おそらく「天守」にあたる存在であることも分かるのだが、実際に舞台上で設定されている場所は教室で、少し違和感。下手奥の演奏エリアに紗幕を張っていて、これはこれで良かったのだが、もしかしたら、紗幕をガラス窓とかにして、演奏エリアをいわゆるDJブース的な扱いにし、「放送室のブースとスタジオ」みたいな設えにしても良かったのかも。(ただ、そうなると、教室が騒がしくて注意しに来る教師の存在の必然性が無くなってしまうのだが…)
    あと、欲を言えば、登場人物の多くが劇中劇の練習パートに関わるメンバーばかりとなり、メインストーリーでもあるスズナとミレ、このふたりの少女の展開に、彼らがちょっと影響しなさすぎで、サブストーリーとメインストーリーの境界線がハッキリしすぎていたのがもったいなく感じた。もうちょっとメインとサブがクロスオーバーしていれば、メインストーリーの深みが増しただろうし、サブストーリーの面々も、賑やかし以上の存在になれたのではなかろうか。
    冒頭の、幕開きと同時に聞こえてくる低音ビート(バスドラかな)と、ビニール傘による群舞は、単純に「おお、カッコいい」と思わせるクオリティで、「ああいうのをやってみたい」と他校の部員や顧問に思わせる力があった。
    東部と西部の代表校の出来によっては、関東大会に駒を進めても納得できるような作品で、2年目にして、「清水南だからこそ出来うる作品に少し手が届いたような」そんな瞬間に立ち会えた。


    16:30~17:30 静岡県立静岡城北高等学校
    「フエキりゅーこう」 作/阪本龍夫(静岡城北高校演劇部潤色)

    戦争で地下シェルターに閉じ込められた学生達の生活を描いた作品で、歌やダンスを織り交ぜた演劇を稽古し、発表する機会を待つのだが、最終的には、一人を除いて全員が砲弾を浴びて死んでしまう。いわゆる反戦モノ。
    描き方が少し直接的すぎるというか、「真正面から声高に反戦」的なセリフが多く、道徳劇っぽく見えてしまったのは、原作のせいなのか、演出のせいなのか。もちろん、そういうメッセージは大切ではあるのだが、「え、実は反戦メッセージに繋がってるの!?」みたいなほうが、そうと分かった時のズシンと来る重みが、より大きいような気がする。
    登場人物は、原作通りの人数なのだが、清水南のあとだったこともあり、舞台が妙にスカスカに感じられてしまい、原作より人数を増やしても良かったような気もする。もう2〜3人居るだけで、随分印象が変わったと思う。あるいは、シェルター感を出して、もっとアクティングエリアを狭めるか。
    メインの役のジョーとユウは、原作では男性の設定なのだが、今回はジョーを女子が演じており、健闘していたと思うのだが、戦闘下という設定を考えると、ここはやはり男子に演じてもらいたかったし、途中で「女性兵士・ソニア」の役がわざわざ登場している事の対比としても、ジョーは男子が良かったのではなかろうか。ソニアの背負うモノの重みが軽くなってしまった印象。
    音響の音量レベルが総じて大きすぎて、冒頭のオルゴールも、もっと繊細に聞こえてきてほしいのに、やけに大きいし、電話の着信音も、客席で鳴り響いているのかと思うような感じで、もうちょっと工夫が欲しかったところ。
    あと、出演者たちのまとう雰囲気からすると、どちらかというとハートウォーミングな作品のほうが合っているような気もした。俳優たちの技量はあるだけに、直接的で扇情的な表現ではなく、もう少し繊細な表現の作品を観てみたかったかな。


    なお、駿河総合と清水南が、県大会へ駒を進めたもよう。静岡県大会は11月29日と30日に、三島市民文化会館にて。