観るのも演るのも日々是好日!

演劇界に生きる男の観劇記録

SPAC-静岡県舞台芸術センターで俳優やってます!

倉敷幼稚園→粒江幼稚園→粒江小学校→倉敷南中学校→総社南高等学校→大阪教育大学

関心あるモノ・コト = 演劇/LEGO/昭和歌謡からJ-POP/字を書くこと/フィギュアスケート鑑賞/温浴施設めぐり/乗り鉄/旅行/睡眠

  • ala Collection シリーズ vol.16『ハハキのアミュレット』@吉祥寺シアター
    【2025/10/13 14:00〜16:00(途中休憩なし)】

    可児市文化創造センターの滞在制作シリーズ。今回はiakuの横山拓也氏による書き下ろし。可児で初演ののち、吉祥寺、ひたちなか、宇都宮、廿日市、日田、丸亀、知立と巡演。
    かつて棕櫚箒(しゅろほうき)の名産地として栄えた、南近畿のある町の工房・倉西商店を舞台に、過疎化問題(人口流出問題)、後継者不足、町おこし、村社会などが盛り込まれたストーリーが展開していく。
    3枚しか出なかった当日券を運良く手に入れることができ、何とか観られたのだが、想像以上に良い舞台だった。さすが、現代演劇の三大拓也(横山拓也、加藤拓也、扇田拓也)w

    ちなみに、「ハハキ」とは「箒」の語源になった言葉で、「アミュレット」はお守り。物語では最終的に、力加減が難しく技術習得に苦労していた、棕櫚箒の繋ぎ部分を、銅線から三つ編みに編み込んだシュロに変えることで、堆積していた諸問題が解決を迎えることになる。

    登場人物は7人。倉西商店の4代目で三つ編みがトレードマークの奏(南果歩)、町を捨てて東京へ出ていった兄・雄一(平田満)、大阪で就職した息子・大樹(田中亨)、大樹の幼馴染で同じく大阪のホテルに就職していた・凛(東宮綾音)、凛の父であり奏の同級生であり地元ホテルの経営者でもある哲男(緒方晋)、倉西商店の取引先であり奏の同級生でもある神主の照道(福本伸一)、奏の弟子1年目の穂香(橋爪未萠里)。
    会話にのみ出てくる存在感ある人物としては、「奏の夫」、「哲男の妻」「地元のおばちゃん」。

    町の助成金で伝統工芸の灯を守る代わりに、倉西商店は安産祈願の神社のノベルティである小さな箒を作っているのだが、この箒の受注が多すぎて、肝心の棕櫚箒づくりの後継者育成になかなか手が回っていない。そのことを、奏も穂香も歯痒く思っている。
    この問題を起点として、登場人物たちがそれぞれに抱えている問題があらわになり、波乱ののち、先に書いた大団円を迎える。

    横山氏の作品としては、緻密に、具体的に、地に足がついた感じの脚本で、新劇の劇団あたりで上演されてそうな印象。突飛な人や独特の感性の人が出てこず、話の展開に無理もなく、とある工房の様子を覗き見しているような作品だった。
    強いて言えば、「凛がユーチューバーの男性の子を身ごもり、その男性とは連絡が取れなくなり、シングルマザーで産むことを決意する」とか、「奏の夫は香港に単身赴任中で、互いに恋愛感情はあるものの事実的には別居婚状態で、夫婦はもう何年も会っていない」とか、実社会にはそういう人があまり居なさそうな設定もあるものの、「想像できる範囲内」ではあるので、人物や設定のリアリティに嘘くささ(ご都合主義な印象)を感じることは無かったかな。

    橋爪さんが、こういう出演の時、「本筋に直接的には関わらないサブキャラクター」で出ていることが多い印象だが、今回は3番手くらいのポジションで、「アミュレットの箒」を考案したのも橋爪さん演じる穂香、という設定で、見せどころが多かったのが個人的には嬉しかった。(橋爪さんの芝居、好きなのでw)

    南果歩さんが「似たような演じ方をする俳優があまり居ない、独自の存在感」で、葛藤を抱えつつも朗らかに生活している自立した女性を好演。還暦という設定ではあるものの、若くてチャーミングで、でも時折、60歳っぽさを垣間見せる、その匙加減が上手い。
    平田満さんも、「歳を重ねて心境が変化し、町のために奔走したいと故郷に舞い戻ってくる(でもその真意が周囲には見えないために「何を考えているのかよく分からない」と認識されてしまう)」、奏の兄を好演。

    ただ、ふたりそれぞれは良いのだけど、ふたりが会話している場面で「血の繋がり感(兄妹感)」が感じられず。奏が同級生と話している時と、兄と話している時とでの違いがあまり見えず、兄の雄一も、いくら疎遠だったとはいえ、妹への接し方がどうにもぎこちない感じで、実の兄妹というよりは「疎遠だった幼馴染」「いとこ」のような雰囲気に感じてしまった。「奏の物心がつく前に雄一が町を出ていってそれきり」くらいの離ればなれだったのなら成立するかな…という感じ。
    ラストの場面に至ってもなお、「ふたりとも、まだお互いに少し遠慮がある」ようにも感じられ、ちょっと惜しい。

    舞台装置の建込みが素晴らしく、舞台上にリアルさがあったおかげで、この場で繰り広げられる会話にもリアリティが生まれやすかったのではないか、と思う。

    地方公演で観劇できそうな機会がある方は、とりあえず観てみると良いのではないだろうか。とりあえず、南果歩さんが素敵なので。(橋爪さんも推すけどw)


  • 劇団温泉ドラゴン第20回公演『まだおとずれてはいない』@雑遊
    【2025/10/12 17:00〜18:20(途中休憩なし)】

    原田ゆう作・演出による、劇団結成15周年の作品は、海で溺れて亡くなった友人と、SNSで繋がっているガザの友人を登場させながら(実際に人物そのものは出てこない)、男3人の日常的な会話劇で描く、社会派な内容。

    弁当屋のシェフ秋実(あきざね)(阪本篤)が、「亡き友人の神林と同じ生年月日」ということもきっかけに、ガザ侵攻で避難生活を送っているパレスチナ人とSNSで繋がり、金銭的な支援を始める。
    無意識に、亡き友人を救えなかった事への償い的な気持ちや後悔が、パレスチナ人一家への支援となる。
    最初は懐疑的だった、幼馴染であり弁当屋の経営者でもある初範(筑波竜一)や、神林の弟・省吾(いわいのふ健)も巻き込みながら、やがて、パレスチナ料理を盛り込んだ、ガサの人たちを支援する弁当開発へと発展していく。
    その矢先、支援していた(支援することでエジプトへの亡命を手助けしようとしていた)パレスチナ人一家が、空爆に遭って全員亡くなってしまう。亡き友人に続いて、またしても「救えなかった」と自責する秋実…
    あらすじとしてはこんな感じ。ラストで、救いの手を差し伸べられなかったと自責する秋実に、省吾と初範が、逆に救いの手を差し伸べるように「溺れてみせる」のが、ふたりのありったけの優しさでもあり励ましでもあり、印象的。

    物語の展開の仕方や、言葉のチョイスが秀逸なのだが、そこにサブリミナル的に入れ込まれた『銀河鉄道の夜』が、これまた実に巧み。
    登場人物3人の名前が、それぞれ『銀河鉄道の夜』に由来されている(と思われる)。
    昔「ザネリ」というあだ名が付いていた秋実(あきざね)、カンバとよばれる神林(おそらく「カンパネルラ」)、「ジョバンニ」由来で命名されたと思われる初範(はつのり))
    ザネリを助けるために溺死したカンパネルラ。「ほんとうのさいわい」を探し続けるジョバンニ。銀河鉄道は弁当配達のハイエースに。
    リアリズムな舞台でありながら、どことなくファンタジーの雰囲気が漂うのは、刷り込まれた『銀河鉄道の夜』のおかげか。

    「支援する」ことの大切さと難しさ。忘れないこと、想うこと。出来ることと出来ないこと。贖罪と後悔。「ライフジャケットを投げる」勇気と、覚悟と。
    そんなことを、押し付けることなく観客それぞれに考えさせてくれる、そんな舞台だった。


  • ホリプロ『チ。―地球の運動について―』@新国立劇場中劇場
    【2025/10/12 13:00〜16:00(途中15分間の休憩あり)】

    漫画、アニメでも有名な『チ。』の舞台化は3時間の大作。悩んだ挙句、原作もアニメも未見のままで観劇することに。(ちなみに、僕が観た回は、ホリプロステージ会員の貸切公演回で、ステッカーのプレゼント付き)
    魚豊氏の原作を、長塚圭史氏が脚本化。演出は、インバル・ピントと共に作品を創っているアブシャロム・ポラック。インバル・ピント→バットシェバ→キッドピボットと渡り歩いているエラ・ホチルドが振付を担当し、音楽は阿部海太郎氏。

    「意外と、地動説とか天動説とか本筋にあんまり関係ないなあ」というのが第一印象。地動説や天動説の仕組みが分かってなくても、観劇には問題なし。
    「地動説」「天動説」とか、唐突にセリフに出てきて、何の説明もされないまま会話が進んでいくしw
    そして、「「チ」とは「地(地球)」のことかと思いきや、「血」のことだったのか…?」という感想なのだが、果たしてこの舞台化は、どこまで原作の世界観を描けているのだろう。

    物語のテーマが「地動説か天動説か」よりも、「宗教という名の支配」「自由を獲得するための信念」といった感じで、「地動説が異端」とされているものの、「なぜ異端扱いされるのか」の部分はあまり明確でなく、単に「いまの宗教(支配)にとって邪魔な存在だから」的な描かれ方に見えた。星球とか使われてはいるのだが、舞台全体からあまり「宇宙感」は感じられず。
    それぞれのキャラクターの「信念」みたいなものは伝わってきて、「その信念をどのように全うするか」という舞台になっていた。

    「地動説を裏付けるための観察や研究」の場面もほぼ無く、「支配者 VS 異端者の攻防戦」に比重が置かれていたし、拷問シーン(指詰めとか抜歯とか)が何度が描かれ、その演出も、血を連想させる描き方でちょっとグロテスク。

    結果として、作品クレジット的な主役はオクジー役の窪田正孝さんだと思うのだが、舞台の実質の主役は、ノヴァク役の森山未來さんと、その娘のヨレンタ役の三浦透子さんという印象。(実際、舞台の演出は、森山さんで始まり森山さんで終わる)
    例えるなら、「軍国主義の支配層が、反軍国主義だった娘が処罰されて失い(実は逃げ延びるが、最終的には自爆テロを起こす)、さらに時代が民主主義になったことで、自分の拠り所を失い呆然とする…」みたいな。

    演出面では、ダンサーのアンサンブル6人(皆川まゆむ、川合ロン、加賀谷一肇、笹本龍史、Rion Watley、半山ゆきの)が良かった。なかでも、川合ロンさんの存在感が印象的。
    「誰がどれか分からない」みたいな感じではなく、それぞれの個人が認識できる使われ方で、でもアンサンブルとしての群衆性はあり、しかも、いろんな場面でいろんな形で登場し、出番も多い。6人一緒にではなく個人で登場する場面も多々ある。
    殺陣の場面もあれば、デラシネラっぽい動きの場面もあったり、全員でそれぞれに太鼓を打ち鳴らしたりと、踊るというよりは、まさしくコロス的な活躍。
    舞台転換や、舞台装置の移動においても大活躍しており、彼ら6人がこの舞台を進めていると言っても過言ではない。

    雨は降らせるし、宙吊りはあるし、壁みたいなユニットがいくつも出てきて、俳優たちは動いているそれを登ったり降りたりしながら場面が変化していくし、とにかく、段取りが大変そうな舞台。(そしてお金もかかっていると思われるw)
    音楽の一部は生演奏で、上手に演奏エリアがあり、竹内理恵とギデオン・ジュークスによるデュオ「MUSIC for ISOLATION」が担当。管楽器をメインに、色々な民族楽器や小物楽器の音色も。

    メインどころの出演者は当然ながら、皆達者で、危なっかしい出演者は不在。演技のクオリティ的には問題ない。歌唱場面がある俳優も多く、ミュージカル的な側面も。(三浦透子さん、めちゃくちゃ歌が上手い!)
    ラファウ役の子役(小野桜介と駒井末宙のダブルキャストで、僕が観た回は小野桜介)が、要所要所で、狂言回し的な感じでシンガー役として登場して歌うのだが、これも良かった。

    実質主役の森山未來さんは、まったく悪びれない悪役を嬉々として演じており、さすがの存在感。ただ、アンサンブルダンサーに混じって動いている時に、森山さんだけ動きの質感が独特というか、ほかに馴染むことが出来ないというか、若干の悪目立ち。(ひとり、アレンジやオリジナルの動きが入っている感じ)

    役者も良い。演出も良い。音楽も良い。
    …なんだけど、いまいちしっくり来ないように感じられてしまったのは、脚本に原因があるのか、そもそもの原作の問題なのか。あるいは、役者や演出や音楽のスキル面の巧さが悪目立ちしすぎていたのか。
    (後ろの席の人たちの会話だと、舞台では漫画の前半がかなり端折られているそうな)


  • ピーピング・トム『TRIPTYCH トリプティック』@穂の国とよはし芸術劇場PLAT 主ホール
    【2025/10/11 14:00〜16:00(途中25分間の舞台転換を兼ねた休憩あり)】

    これまでに日本で上演されたピーピング・トム関連の舞台は、わりと見てきた方だと思うのだが、今回は『ヴァンデンブランデン通り32番地』(2010年)の時の衝撃を思い出す、目が離せない作品だった。
    「ホラーなダンス」「デヴィッド・リンチ監督作品みたい」という感想がSNS上で見られたが、まさにそんな感じで、終末感とかディストピアとか悪夢とかを連想させる世界観。ただ、とても魅惑的で妖しく、別の意味で美しく、個人的には大好物な世界観でもあるw
    (ちょっとグロテスクだったり、男女ともに全裸のシーンがあったりするので、好みは分かれると思う)

    タイトルは「3連からなる絵画」を意味するそうだが、おそらく、「TRIP(旅/つまずく/ぶっ飛ぶ)」の意味を内在している(と思われる内容)。日本語のキャッチコピーにもある「クルーズ(航海)」が裏テーマ。
    「ミッシング・ドア」「ロスト・ルーム」「ヒドゥン・フロア」の3作品からなる構成で、NDTのために作られた作品を、ピーピング・トムが自ら再構築した、いわば「ディレクターズカット版」な上演。

    三楽章からなる交響曲のような構成で、楽章ごとに変奏しながらも、モチーフとなるテーマがそれぞれに使われているイメージの作品。
    場面的には、①「モスグリーンな世界観の、ある客室(もしくはロビー的な場所かも)」→②「赤茶系の、ベランダと寝室とクローゼットのある別の客室」→③「コンクリートっぽい質感の、屋外のようにも見える、浅く水を張った食堂」と変化するが、たとえば、①と②は隣接する空間のようにも見えたり、③の遠景に②の客室内が見えていたりと、どこかで繋がっているようにも見える。登場人物も、3つの場面通して同じキャラクターを演じているようにも見えるし。

    3場面とも意匠が美しく、退廃的。そして踊りやすいように、床がよく滑る。③に至ってはアクティングエリアにちょっとした防波堤が設けられ、薄く水が張られた中のアクロバットだったので、最前列客席には水しぶきがかかっただろう。(最前列にはビニールシート的なものが配られていた)

    場面ごとに大がかりな舞台転換がオープンな状態で行われ、①と②の間は10分で、基本的に観客はそのまま待機。②と③の間は25分で、こちらは休憩の表示が出る。
    ただ、場面転換中も、前の場面の登場人物がひとり、舞台上に常にいて、前の場面の余韻を残しつつ、ダンサーも手伝いながら舞台装置が次の場面に設えられていくので、これはこれで見どころが多く、自分も含め、着席したままで再開を待つ客も多数いた。

    ピーピング・トムの代名詞とも言える「身体の関節どーなってるの!?」的な軟体系の動きや、「躍動的」という言葉の範疇に留まらない、まるで重力が無いかのようにも見える動きは健在。あと、「強風に煽られそうになるのを必死に抵抗する」みたいな、重力と無重力が拮抗するような動きも。
    それ以外に、今回は、痙攣や脈動や速い反復のような動きとか、コマ送りで「だるまさんがころんだ」をやっているような動きが印象的。
    ほかにも、素足でつま先を折り曲げて歩く女性ダンサー、床を拭こうとするのに雑巾があっちこっちして雑巾を掴めない動き、寝ていてブリッジ状態で起き上がろうとするのに途中でまた寝た状態に戻るのを何度も繰り返す動き、二人羽織的に食事する場面、クローゼットの中から複数の人がなだれ込んでくる場面、裸で抱き合ったまま死後硬直したような2人を引き剥がそうとする場面なども、好きだった。

    ちょっとした屋台崩しっぽいことが起きたり、電車が走っているように窓の外の人が浮かんでは消え去っていく見せ方、ベッドから人が現れたり消えたりする仕掛け、水面に映る人や装置など、ダンサーの動き以外にも強烈な印象を残した。

    地元出演者が1名、踊るというよりは存在する感じで出演しており、年配の男性だったが、その男性が②のラストで泣く場面があり、その涙が足元に大きな水たまりとなって、そのまま③に場面転換。男性はダンサーに促されて何度か場所を変えながら、ずっとハンカチを目に泣いていて、その姿は照明で照らし出され、同時進行で大がかりな舞台転換が行われ、水たまりはちょっとしたプールとなり…という、地元の男性がとても重要な存在感を果たしていたのも印象的。

    (↓本作品ティザー動画2種↓)
    https://youtu.be/t1ZHY_J2RL0?si=a4duc-TR7yxuB-VL
    https://youtu.be/rlwTsVm9Nsc?si=o3MlInMRQFT_uc5s
    これを見れば、僕が書きたいことの何割かは分かってもらえるかもw

    今回、東京公演は見送って豊橋での観劇だったが、もし東京で観ていたら、豊橋でおかわりしていた可能性大。


  • 株式会社アミューズクリエイティブスタジオ『ここが海』@シアタートラム
    【2025/10/7 18:00〜19:40(途中休憩なし)】

    加藤拓也×橋本淳による、100分の濃密な舞台。3人しか登場しない作品なのだが、注意深く観察するように観ていないと、取り逃してしまうものが多い作品。
    シリアスなテーマと、饒舌な会話と、ふとした沈黙と、おそらく雄弁に語っていると思われる目の演技と、何気ない風景と。

    自宅はあるものの、長期で各地のホテルやコテージなどに滞在しながら生活する夫婦の岳人(橋本淳)と友理(黒木華)、そして17歳の娘・真琴(中田青渚)。夫婦ともライターを生業としていて、娘はオンラインで出席できる学校に在学しているもよう。
    ホテルの一室が舞台(舞台後半では設えが変わって、北海道と思われるコテージの一室になる)で、ホテルの部屋と舞台奥の間を、大きなカーテンで区切っていて、カーテンの向こう側が部屋の外の廊下に見立てられている使い方が良かった。ちなみに、物語後半では、その「舞台奥」は雪景色となり、部屋の外に見立てられる。

    物語としては、友理が「男性に性別変更したい」と告白したことを発端に、変化していく家族の関係性と、同じく変化していく友理の心身が、半年の歳月で描かれる。
    いわゆる「当事者」的な存在は、トランスジェンダーである友理なのだが、戯曲はどちらかというと、その当事者を受け止める立場である岳人に焦点が当たっているようにも見える。

    婚姻関係の妻が「男性になる」ということには、我々の想像以上のハードルが待ち受ける。世間の目も、法律も、制度も、優しくはない。
    そんな「妻」を、理解しようとし、受け止めようとし、関係を継続しようと岳人はもがくけれど、最終的には「離婚届に署名する」という選択肢となる。
    これは、単に「別れることにする」というよりも、「離婚することで諸々の手続きがしやすくなる(婚姻関係のままでは戸籍の性別変更はできない)」ということではあるのだが、「たかが紙一枚、されど紙一枚」なわけで、なんともツラい。婚姻届を書き終えたあとの岳人の眼差しが、やり切れなさを饒舌に物語る。

    娘の真琴が、両親が出した結論を割りと理解ある感じで受け止めているように振る舞っているのだが、たぶん彼女のなかにも色んな葛藤が渦巻いていて、でもそれを両親には見せないようにしていて、そのいじらしさとか、「自分が許容しているようにしないと物事が進まない」という一種のあきらめとか、そういうのが観客には見え隠れしていて、それもまたツラい。

    また、「友理は「恋愛対象は女性」の「男性」になりたいと思っている」のだと認識していたが、「岳人はゲイじゃない」と友里が岳人を突き放すように何度も言う場面があって、一瞬「?」となるのだが、このセリフは「岳人は恋愛対象が男性じゃない。だから私と一緒にいる理由にはならない」と、あえて「別れるための理由」を突きつけていたのかも…と考えると、その優しさが、切ない。

    ほかにも、真琴がお菓子の包み紙をソファの隙間に押しやる(そしてそれが大量にあったことが、後の場面で明かされる)のとか、真琴が友だちに唆されて薬物に手を出す(大事には至らずに済む)とか、岳人が耳を掻きすぎて耳から出血するのとか、岳人がトイレのあとに消臭スプレーをすることにやたらこだわるのとか、一見すると、本筋の「性別変更」に大きく関係しないエピソードも、伏線とは違うけど、巧妙に練り込まれた「岳人や真琴の無意識の自我」のようにも見えてくる。

    岳人役の橋本淳さんは、とにかく、間投詞や言い淀みや言い直しが膨大にある独特のセリフを自然に滑らかに発するのがすごすぎる。あの「(後方の客席にはもしかしたらしっかり聴き取れていないのではと思わせる)セリフとは思えないような普段使いな喋り方」は天下一品w
    あと、セリフがない時の、ちょっとした仕草やちょっとした目線などの、行間の体現具合が加藤演出にとても合っているのだと思う。
    ただ、17歳の父親にしては少し若い印象なのが惜しい。

    友理役の黒木華さんは、京女風のほんわかした感じが、場面を追うごとに男性化していくその様が予想以上で良かった。
    「頭では男性になりたいと思っている」→「治療を開始して若干の変化」→「憧れていた男性という性別に精神的にも近づいていく」→「本格的に変化が起きて性別変更の手術も視野に入れた状態」と、本当に男性ホルモンを注射して変化しているみたいで。「男性に変化しつつある女性」みたいな、ボーダー上にいるような表現が上手い。(演技だけではそこまで到達しない気もするので、黒木さんのもともとの気質的なものも作用しているようにも思う)
    黒木さんは、実年齢は橋本さんより下なのだが、黒木さんのほうが17歳の母親にも見えた。

    真琴役の中田青渚さんは、周囲の顔色をうかがう感じとか、心配させないようにその場を演じる感じとか、匙加減がちょうど良かった。
    ただ、17歳にしては少し大人すぎた印象もあり(実年齢は25歳)、「作品のリアリティ」という観点で言えば、俳優3人の演技そのものには非常に説得力があるものの、両親をもう少し年上の俳優にするか、真琴役がもう少し幼い印象の俳優にしたほうが、ビジュアル的な作品の説得力も増した気はする。

    後半の場面の、当事者たちではない外野を指す、「関係ない人のほうが強いからね」という友理のセリフが、とても印象に残った。

    それにしても、(たまたまだとは思うが)本作の折り込みチラシを全く見かけず、偶然流れてきたネットの情報で上演を知り、その時は既に前売開始後で、運良く予約出来たのだが、こんなに宣伝が絞られているような状態でも、満席になるのはさすがアミューズというか何というか。
    なので、出演者のファン以外は、嗅覚鋭い演劇ファンだけが来ているような感じで、客席の集中が極度に研ぎ澄まされていたような印象。(みんな、心して来ている感じw)

    帰路、『ここが海』というタイトルの理由を考えてみた。
    はっきりと明示するようなセリフは出てこなかったと記憶しているが、岳人が海が苦手な理由を話す場面があり、もしかしたら、友理の告白を受け止めた岳人にとって、告白の内容やその後の妻との関係性などが、「海の中にいるような居心地の悪さ、気味の悪さ」を表しているのかな、と思ってみたり。

    それにしても、チラシが二つ折りA4サイズで、中面にインタビューが掲載(特設サイトにも同じものが掲載)されているのだが、まあ、字が小さいこと。というか、あえて小さくして文字のギッシリ感、イコール、言葉では語り尽くせない感を演出してる…?


  • 座・高円寺 秋の劇場14/劇場へいこう!『夏の夜の夢』@座・高円寺1
    【2025/9/28 14:00〜15:10(途中休憩なし)】

    シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を70分に刈り込み、まとめ上げた。しかしながら、妖精たちの登場やラストには歌のシーンもあるなど、70分に様々な要素を詰め込んだ意欲作。
    こんなに刈り込んで、しかし、スッキリと分かりやすい『夏の夜の夢』は、あまり観たことがないかも。脚本が恐ろしく良いのだろう。
    2024年初演。脚本はかもめんたるの岩崎う大氏。演出は、温泉ドラゴンの主宰であり、座・高円寺の芸術監督でもあるシライケイタ氏。

    出演者7人で、二組の若い恋人たちと妖精たちはもちろん、シーシュースとヒポリタも出てくれば、職人たちの場面もある。もちろん、かなり大胆にカットはされているが、パック以外は、ひとり3役くらいを兼ねている。
    舞台両端には各俳優の早替え場があり、その様子も見せながらの場面転換。大きな積み木のような抽象セットに、大量の緑のゴムボール、電飾、カラーコーン、など。舞台転換的な作業も俳優たちが行うので、全員ほぼ舞台上に出ずっぱり。相当、段取りの多い作品だと思う。
    衣装は、人間たちは白をベースとした洋装だが、妖精たちは色とりどりでメルヘンで書き割り風味な装い。(洋服のサイド部分が簡略化された、ゼッケンとかサンドイッチマン的な仕上がり)

    パック役の西脇将伍さんは、ろう者で手話のみで演技。パックのセリフは、その時に出番のない男性陣が交代しながらマイクで音声化。ある意味「二人一役」的な演出。
    これが、「妖精の姿は人間に見えず、妖精の声は人間に聞こえない」という戯曲の世界観と、「パックは手話でしか語れない」ことが、必然性で結びついている感じがして、作品との相性抜群で、説得力があって良かった(もちろん、パック以外の妖精たちは普通に喋っているけれど)。
    ラストの有名な、パックの長セリフは、最初は手話だけで無音のなかで語られ、次に、出演者全員での割ゼリフとして手話付きで語られ、やがて歌と振り付けとなる。それがとっても素敵で、理由もなく泣けてくる感じだった。(パックも含め全員、妖精たちの扮装とかではなく、白の衣裳になっているのも良かった)

    僕が観た回は、西脇さんとは別に、手話通訳者(田中結夏)が、ほぼ「出演者のひとり」状態で舞台上にいて、演技やリアクションもしながら、他の俳優たちのセリフを手話にしていたのだが、そのなじみ具合も良かった。
    手話が「添え物」ではなく、作品を構成する1つの要素になっている。

    出演者は全員、適材適所という感じで座組のバランスも良く、技量のある人たちが集まっていたが、なかでも、山﨑薫さんが素晴らしい。
    ヒポリタとヘレナとタイターニアを慌ただしく演じ分け、大女優然とした雰囲気も、コメディエンヌっぽいキャラクターも見せ、笑いも取るし、歌も聴かせる。時々、高畑充希さんに見える(聞こえる)瞬間があって、声やセリフの感じが少し似ている印象。
    温泉ドラゴンの『痕、婚、』で、その演技に一目惚れしたが、今回の『夏の夜の夢』で完全に射抜かれ、またひとり「この人が出演しているなら観に行こう」俳優が増えてしまったw

    恋に落ちる花(原作で言う「恋の三色すみれ」)が、とても臭い匂い(タンスの防虫剤のような匂い?)で、恋から冷める花が、とっても良い匂いがする、という設定なのが、ひねりが効いていて面白かった。
    こういうひねりが随所に見受けられ、本当に台本がよく出来ていると思う。

    座・高円寺の「劇場へいこう!」シリーズの作品は、本当によく出来たものが多い。今年一緒に再演されていた『小さな王子さま』(数年前に観劇)も良かったし、古くは『旅とあいつとお姫さま』や『ピノッキオ』『ふたごの星』なども見応えがあった。

    子どもはもちろん、大人にもオススメできる。ろう者との共演に興味がある人にはうってつけだし、観劇初心者からシアターゴアーまで間口の広い、座・高円寺の底力を感じさせる作品だ。


  • 新しいシェイクスピア劇の創造事業/水戸芸術館プロデュース公演『ロミオとジュリエット』@水戸芸術館ACM劇場
    【2025/9/27 18:30〜20:45(途中休憩なし)】

    今年の1月に観劇した、『世界のすべては、ひとつの舞台~シェイクスピアの旅芸人』に続く、水戸芸術館による「新しいシェイクスピア劇の創造事業」企画の第二弾。演出も引き続き、大澤遊氏。

    新訳ではあるが、従来の翻訳とそこまで明確な違いはなく、もう少し変化球な演出や構成があるかと思いきや、衣裳が現代風の洋装であることを除けば、かなりオーソドックスな作風の『ロミジュリ』でちょっと拍子抜け。
    ウクライナやガザを彷彿とさせる演出も、少しは入っているのだが、舞台が現実世界と反転するような所までは行かず。
    「『ロミオとジュリエット』でなくてもよかったんじゃ…」というのが正直なところ。この座組なら、違うシェイクスピア作品でもっとしっくり来るのがありそうだが…。

    個人的に、『ロミジュリ』は「ディスコミの芝居」だと思っているので、現代人風な見え方になった時に一番違和感があるのが、「電話もメールも無い現代」という設定。
    つまり、「現代だと成立しない設定の物語」なので、『ロミジュリ』を現代風なビジュアルにするなら、「使いを出す」とか「手紙で知らせる」みたいな部分は手を加える必要があるのでは?と思ってしまう。
    殺陣にしても、ナイフというアナログな武器しか出てこないことに、やはり違和感が少し残る。

    松田洋治さんのロレンス神父役は味わい深いものがあり良かったのだが、たとえば乳母役の高畑こと美さんは、上手いのだけどちょっと役柄の割には若く感じられ、むしろキャピュレット夫人とかのほうがしっくりくる。
    というように、出演者全体的に、役柄と俳優の年齢や持ち味がちょっとチグハグな印象で、その点でも、彼らがもっと活きるシェイクスピア作品にしたほうが良かったのでは…という気がした。
    (俳優たちは、何役か兼ねている人も多く、先に述べたチグハグ感以外については、総じて悪くはない)

    また、今回も、「水戸子どもミュージカル」出身の若手が、アンサンブルとして参加して活躍していたが、作品的に、賑やかしが活躍するタイプの戯曲でもないためか、ちょっと見せ場が無さすぎた形になったのがもったいない。

    バルコニー、ベッド、墓など、象徴的な舞台美術は、必要に応じて出てくるものの、基本的には素舞台に近い設え。
    ラスト、霊廟の場面の前に、舞台が電動で下がって、ビジュアル的にも場面的にも変化を見せたのはとても良かった。(ACM劇場は、シアタートラムみたいに、舞台全体をセパレートで昇降できるようになっている)


  • 道産子男闘呼倶楽部『きのう下田のハーバーライトで』@浅草九劇
    【2025/9/27 13:00〜14:30(途中休憩なし)】

    仕事上のパートナー(実演販売員とマネージャー)である伊坂(犬飼淳治)と原(津村知与支)。大学時代からの腐れ縁が続き、30年を共にしてきた男ふたり(恋人同士とかではない)の、下田のモーテルでの一室の、決意と逡巡と。
    幸福な時もあったのだが、それも今は昔。互いに、「いま自分の状況がこうなってしまっているのは相手のせい(相手が自分をこの世界に引っ張り込んだ)」と考えている所もあり、今はどちらかというと冷え切った、ビジネスライクな関係性に近い。

    彼らの出会いから今に至るまでを、回想風に描く90分(ロードムービー風な感じではない)。作・演出は蓬莱竜太氏。芸能界、成り上がり、一攫千金…そういった感じのことも描かれる。

    外側から見たふたりの関係性は、共依存にも感じられるし、互いに勝手に相手へ期待しすぎていた。「相手の欲望に乗っかった」結果としての現在。思い描いていた未来とは違う着地点にいるふたりは、どちらかというと「不幸な関係」なのかもしれない。
    やり取りにコミカルな部分もあるのだが、どこかに悲哀が付きまとって感じられ、個人的には笑うことが少し躊躇われた。

    チラシに寄せられている演劇人たちの「初演時の感想」は、確かに間違ってはいないのだが、それを読んで想像していた舞台の雰囲気とは少し異なっていて、ちょっと期待値が高くなりすぎたかもしれない。


  • 豊岡演劇祭2025ディレクターズプログラム/城崎国際アートセンターAIRプログラム2025/26
    王嘉明/Shakespeare’s Wild Sisters Group ✕ タニノクロウ/庭劇団ペニノ『誠實浴池(せいじつよくじょう)』@城崎国際アートセンター
    【2025/09/21 19:00〜20:40(途中休憩なし)】

    王嘉明氏(Shakespeare’s Wild Sisters Group)とタニノクロウ氏(庭劇団ペニノ)の作・演出による、日台共同制作の舞台。2024年に台北で初演され、演出の王さんと出演者のFaさんと崔台鎬さんとは2017年度に一緒に仕事をした関係もあって、ぜひとも観たかった作品を、日本初演上演というタイミングで観劇。

    浴場は欲情でもあり、銭湯は戦闘でもあり、プレイ(PLAY)はプレイ(PRAY)でもあり、宮城聰作品とはまた違う形での「魂鎮め演劇」でもあり、SMクラブと言いつつも繰り広げられる行為は全くの想定外で、どちらかと言うと教会での懺悔のようでもあり、戦士した男たちは犬になり貝になり、若い女たちは戦場のナイチンゲールのようでもあり…とまあなんとも説明が難しい、いわゆる不条理劇の路線の作品なのだが、パンフレットのタニノさんの言葉を借りると以下の通り。

    「海で戦死した兵士たち専用の SMクラブ」という奇妙で不気味な場所を舞台に、亡霊となった男たちが歪んだ欲望のために、その廃墟の銭湯に訪れる…

    女優3名が風俗嬢的なポジションで、男優4名がそれぞれに過去を持つ戦死者で、片桐はいりさんはいわゆる置屋の女将的な役どころだが、「この人もかつては風俗嬢の立場だったのかな?」とも思わせる。

    川端康成の『眠れる美女』(三島由紀夫による代筆説も囁かれる作品!)に着想を得たとのことだが、おそらく、王さんとタニノさんのいいとこ取り的な作品に仕上がっていたのではないだろうか。
    多分おふたりとも、(推測でしかないのだけど)細かい設定の齟齬とか辻褄の合わなさを気にしないw(と思う)。イメージの羅列やコラージュをベースにして作品が練られていったのではないか(と思う)。良い意味で「意味ありげ」な場面の連続で(でもそこに大きな意味は無い)、まさしく夢を見ているような作品が好きなのではないか(と思う)。

    すべて推測でしかないが、少なくとも、王さんとお仕事をご一緒した時の、彼の美学の方向性はそんな感じだったように思う。

    「3人の若い女たちが勤務のときは髪型も含めてお揃いのビジュアルになる」とか、「貝の派手なビジュアルはあれが正解なのか?」とか、随所の設定に謎が多いのだけど、全体的に「滑稽な悪夢感」に包まれ、妙に説得力がある。
    4人の男優たちの犬の形態模写とか、「何を見せられてるんだろう」と思う一方で、その精一杯の犬っぷりが可笑しくもあり、説得力もあり。

    「廃墟と化したかつての銭湯」の舞台装置の作り込みがさすがで、それが、これらの説得力を強固にしているのだろう。
    そして、その廃墟な銭湯を、城崎温泉で見るというのも実に味わい深い。照明効果も、妖しく美しい。

    このあと、富山と東京でも公演あり。怪しげで不条理な世界観が好きな人にはオススメしたい。

  • 豊岡演劇祭2025フリンジセレクション/多田淳之介 × やどりぎ座『For Encounters』@豊岡稽古堂3階交流室
    【2025/09/21 14:00〜15:25】

    「限りなくスポーツに近いパフォーマンス」というのが観終わった時の最初の感想。

    (おそらく)観客には説明されない暗黙のルール的なものがパフォーマー間で共有されていて、「そのルールに基づいてパフォーマンスをしてみたらどうなるか」、その実験結果が作品として提示される感じ。
    スポーツは、「ルールは存在するがゲーム内容は毎回異なる」わけで、これの身体表現版というイメージだ。
    (フィギュアスケートや体操など、芸術点の存在するスポーツは、あらかじめ演技内容を決めているので、アドリブ的な場面もあるだろうが、そちらは台本のある演劇に近いと言えるだろう)

    ノンバーバルでセリフもなく、動きのみで構成されるため、内容的にコンテンポラリーダンスと言えなくもないが、おそらく本作は「運動」としての「身体表現」であり、「踊り」とは根本的に異なる根っこから生まれた表現のように感じられた。

    パフォーマンスのなかでも白眉だったのは、何度も繰り返され、パフォーマーの心身が激しく消耗されていく「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」だろう。ある意味では、かなり酷な、容赦のない演出。
    5人が、それぞれに色々な動きを一回性で行うなか、曲がかかる。曲が終わって再度頭から曲が再生されると、曲がかかった時の最初のポジションに戻って、さっきと同じ構成の動きを繰り返す。ただそれだけ。

    しかし、「曲がかかるたびに振り出しに戻って1曲分の動きを何度も繰り返す」という「パブロフの犬」的な人体実験感のあるパフォーマンスでもあり、曲中のフレーズ「ライフ・ゴーズ・オン」をある意味で体現するようなパフォーマンスでもあり、「何気なく決めたルーティーンを、自分の意思と関係なく繰り返す」ようでもあり、まさしく「生きていく」ということが濃縮されたようなパフォーマンスだった。
    (おそらく)決まっている振り付けではなく、「1回目に曲が流れる時にやった動きを、再度曲が流れたら、同じようにやる」という趣旨だと思うのだが、これは、「1回目にやったことを何度も繰り返す」のではなく、「前の回にやったことを繰り返す」というルールなのだろう。(1回目と2回目で異なっていた時、3回目は2回目を踏襲しているように見えたので)

    このパフォーマンスでさらに面白かったのは、5人5様の向き合い方が見られたことだ。
    なかでも、河村さんが「無我になる」ことへのためらいの無さが突出していて(もしくは「無我になっている」ように見せるのがすごく上手いだけなのかもしれないが)、曲がかかるたび、その心身を迷うことなく空間や作品に捧げ、まるで水晶のような輝きを見せていた。しかも、回を追うごとに輝きと純度が増していく。
    「疲れた」とか「またか…」とか「どうだっけ?」みたいな瞬間がほぼ見えず、「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」の世界に潔く飛び込める、その無垢な身体性がとても良かった。
    (もしかしたら、多田さんがこのパフォーマンスで求めたものは、違うところにあるのかもしれないけど)

    河村さん以外も、それぞれの個性が表れていて、良し悪しということではなく、「(それぞれが)違っていることの面白さ」が感じられた。「無我になろうとする意思が垣間見える」「迷うと一瞬思考停止になる」「瞬間瞬間を切り捨てられず引き摺る」などなど。

    「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」のあとの、「相手の出方をうかがいつつ仲間になっていく動き」とか、「つながったり離れたりする動き」とかは、まさにタイトルである「ENCOUNT(出会い)」であり、5人が小動物のように見え、微笑ましくもあった。

    静岡での上演だと、たぶん出演者の身体性や考え方を知っている観客が多いと思われ、それはパフォーマンスにとっては味方になってしまうというか、「パフォーマーの個性」を楽しむ側面が強くなるだろう。一方で、そのメンバーである必然性に対する興味は薄まる可能性がある。
    しかし、豊岡での上演だと、出演者のことをよく知らない観客が多くなるわけで、「パフォーマーの個性」も楽しめるが、純粋に「作品としてのパフォーマンス」を楽しむ側面が強くなるように思った。

    つまり、ざっくり言うと、「この5人である必然性」が求められる、ということだ。
    静岡版は未見なので比較できないが、結果的に今回の5人は、作品におけるアンサンブルとしてうまく機能していたように思う。
    (もしかしたらもう一人、清楓さん系統の向き合い方の男性がいても良かったのかもしれない、とは思ったが)