観るのも演るのも日々是好日!

演劇界に生きる男の観劇記録

SPAC-静岡県舞台芸術センターで俳優やってます!

倉敷幼稚園→粒江幼稚園→粒江小学校→倉敷南中学校→総社南高等学校→大阪教育大学

関心あるモノ・コト = 演劇/LEGO/昭和歌謡からJ-POP/字を書くこと/フィギュアスケート鑑賞/温浴施設めぐり/乗り鉄/旅行/睡眠

  • シス・カンパニー『やなぎにツバメは』@紀伊國屋ホール
    【2025/3/25 14:00〜15:40(途中休憩なし)】

    上演時間が1時間40分で終わるのが「ひたすらに惜しい」と思わせる作品と出演者(という取り合わせ)。あと1時間くらい延長戦を希望w

    出演者6名(大竹しのぶ、木野花、林遣都、松岡茉優、浅野和之、段田安則)はいずれも、ギリシャ悲劇やシェイクスビア作品でも主演を張れるような存在感と演技力だが、今回はごく普通の、現代の庶民を演じるという面白さと贅沢さ。
    横山拓也氏による当て書きと思われる書き下ろし戯曲は、近年の彼の作品のなかでも群を抜いて冴えている。寺十吾氏の演出も、戯曲のリズム感や登場人物たちの凸凹感を損なうことなく、良い。

    老老介護、リタイア後の新たな人生、同居問題、子どもたちの結婚、シニア世代の友情と恋…などが散りばめられた戯曲で、基本的にはホームコメディな側面が強い。向田邦子的でもあり、岸田國士的でもあり。
    ただし、エンディングのまとめられ方は、誰に感情移入して観ているかによっては「ホラー」にもなり得る結末。

    現在60代の、美栄子(大竹しのぶ)、洋輝(ひろき/段田安則)、佑美(木野花)の3人は、約20年前、美栄子の母ツバメが経営する「カラオケスナックつばめ」で知り合った。当時、美栄子は日中は会社員として働きながら、夜、店を手伝わされ、店の常連で年の近い洋輝と佑美と仲良くなった。3人にとって店は特別な場所であり、美栄子が夫の賢吾(浅野和之)と離婚話になった時や、洋輝が妻を病で亡くした時や、佑美が仕事で悩んでいた時など、いつもこのスナックで励まし合っていた仲。
    スナックを再現したようにリフォームされた、美栄子の自宅リビングを舞台に、美栄子の母ツバメの葬儀の夜から物語は始まる。
    介護から解放された美栄子や、自身の老後が心配な洋輝や佑美、洋輝の息子の修斗(林遣都)と美栄子の娘の花恋(かれん/松岡茉優)の結婚話などが絡んでくる。話の成り行きで、美枝子たちシニア世代の親友3人でのグループリビングの話などが出たり、賢吾と美栄子の離婚は「賢吾と佑美が恋愛関係にある、と美栄子が疑っていたこと」なども明らかになっていく。
    ラスト、洋輝を心の拠り所としていた美栄子は、ふたりの子どもたちが結婚して同居することを機に、洋輝も一緒に同居することを期待するのだが、実は、洋輝は佑美との再婚話が進んでおり、胸に秘めていた美栄子の淡い恋心は儚く散ってしまう。また、花恋にとっても、母の失恋を目の当たりにするだけでなく、毛嫌いしている佑美が姑という立場になることが明らかになる。

    確かに「どうしようもない人たちの微笑ましいホームドラマ」ではあるのだが、一方で、美栄子の「誰にもぶつけることが出来ないやり切れなさ」や、「母の想いが娘として痛いほど分かるのにどうすることも出来ない」花恋を思うと、モヤモヤした感情も残り、「誰かの幸せは、誰かの不幸の上に成り立っている」そんなことを感じずにはいられない。

    ちなみに、「やなぎにツバメ」は、劇中で大きな意味を持つ『胸の振子』という懐メロ歌謡の歌詞であり、「絵になるもの」を指すことわざでもあり、この作品全体を表す、言い得て妙な言葉。

    大竹さん、横山戯曲だといつもの大竹節があまり目立たずいい感じ。段田さん、浅野さん、木野さんも、さすがの上手さ。林さんと松岡さんの子世代カッブルも、子世代独特のテンポ感や漫才風なやり取りがハマり、このふたりが演じる必然性が感じられる域に達している。
    とにかく、6人が見事にハマり、いろんな現代会話劇を自然体で演じている姿をもっと観てみたくなる、そんな印象。(まあ、テレビドラマもそつなくこなす皆さんなので、当然と言えば当然なのだけどw)

    一点。舞台装置で、リビング奥の、仏壇のある和室が、奥行きが座布団1枚分しかなくて異様に狭い状態なのは、さすがにちょっと不自然で気になってしょうがなかったけどw


    シス・カンパニー公演
    『やなぎにツバメは』
    作 横山拓也
    演出 寺十吾

    柳下美栄子 大竹しのぶ
    仁藤佑美 木野花
    浜坂修斗 林遣都
    柳下花恋 松岡茉優
    鳥野賢吾 浅野和之
    浜坂洋輝 段田安則

    美術 平山正太郎
    照明 日下靖順
    衣装 前田文子
    音楽 坂本弘道
    音響 岩野直人
    ヘアメイク 佐藤裕子
    舞台監督 瀧原寿子
    プロデューサー 北村明子

    演出助手 山﨑総司
    照明操作 大内陽介
    音響操作 松宮辰太郎
    現場ヘアメイク 根布谷恵子
    演出部 正岡啓明、久保勲生、三木やよい、櫻井典子
    制作【進行】 土井さや佳、市川美紀、鈴木瑛恵、井上果穂
    【票券】 安田千秋、笠間美穂
    【宣伝】 西村聖子
    【WEB】 垣ヶ原将
    【アシスタントプロデューサー】 吉澤尚子

    大道具制作 ㈱シー・コム(伊藤清次)
    小道具 高津装飾美術㈱(西村太志)
    電飾 ㈱コマデン(吉田有希、杉山克典)
    衣装制作 松竹衣裳㈱(成田有加、柿沼薰、北條祐介)
    運搬 ㈱マイド
    協力 JOYSOUND、㈱センターラインアソシエイツ、㈱アート・ステージライティング・グループ、㈱ステージオフィス、スタジオAD、アデランス、Ν.Ε.Τ. ON、㈱ストロボライツ、㈱movel、渡辺みのり、都立大NOAHスタジオ(稽古場)
    マネージメント協力 ㈱ニベル、㈲ザズウ、㈲有エスター、㈱吉住モータース、㈱スターダストプロモーション、㈱ヒラタフィルム

    宣伝美術 平田好
    宣伝写真・パンフレット撮影 加藤孝
    舞台写真撮影 宮川舞子
    宣伝写真・パンフレットヘアメイク 新井克英(e.a.t…)
    宣伝写真ヘアメイク 藤原羊二(UM)

    提携 紀伊國屋書店【東京公演】
    運営協力 ㈱サンライズプロモーション大阪【大阪公演】
    企画・製作 シス・カンパニー

    2025年3月7日〜30日 紀伊國屋ホール
    2025年4月3日〜6日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ

  • 劇団温泉ドラゴン第19回公演『痕、婚、』@中野 ザ・ポケット
    【2025/3/20 19:00〜21:05(途中休憩なし)】

    関東大震災の2年後の、とある下町を舞台に、朝鮮人虐殺の加害者と被害者の問題に切り込んだ作品。ある意味「令和の井上ひさし」感のある劇作。
    「人種差別」という言葉だけでは片付けられないような、複雑に絡み合った問題が描かれていて、「集団心理」とか「同調圧力」とか、そういった言葉も浮かんでくる。喉元に刃物を突きつけられるような、そんな重いテーマの作品なのだが、ときおり見え隠れするコミカルな場面の挟み方も、ある意味「井上ひさし」的。
    (それにしても、骨太な社会派の小劇場系の舞台が最近増えてきたような気もするのだが、これも時勢なのだろうか)

    建て込まれた日本家屋の居間と裏庭を舞台に物語は展開。場面転換の仕方が、ある人物や道具にスポットが当たったまま、薄明かりのなか行われるのが印象的。(完全に暗転した状態での転換も何度かある)
    食事の場面が何度か出てくるが、テレビドラマのように本当にご飯やおかずが出てきて、それを食べながら演技しているのも印象的。「本当に食べることによって生まれる何か」があるのだろう。

    物語の終盤、それぞれに秘密を抱えたまま、妻を病気で失った洋裁店店主の友久(いわいのふ健)と、住み込みで働き始めた麻子(山﨑薫)は再婚することになる。実は麻子は朝鮮人であることが判明するのだが、周囲の人間は彼女の素性を快く受け入れる。
    だが、婚姻届を提出して戻ってきた祝いの席で、「麻子の婚約者が朝鮮人虐殺で殺されたこと」「その婚約者を殺したのが友久たの自警団であったこと」「友久をはじめとする周囲の人間が虐殺の事実を黙っていたこと」「麻子ははじめから全てを知っていて住み込みで働き始めたこと」などが明らかになる。ほかにも、それまでの場面でちらっと触れられていたような色々なことが、このクライマックスで、線となって繋がっていく。
    事実をつまびらかにしようとするもクビとなってしまう新聞記者や、元軍人で朝鮮から連れ帰った猫を飼っている隣人なども絡みながら、それぞれの、遺恨・後悔・愛情などが描かれていく。

    ラスト、裁ちばさみで友久を刺そうとするも出来なかった麻子と、刺されることを受け入れようとした友久の間には、文字通り「愛」と「憎」が渦巻いていたと思うが、最後には「愛」が勝ったのだと思いたい。
    そして、「あの日」以来、朝鮮語を喋れなくなってしまった麻子が最後に朝鮮語を取り戻したことで、彼女のなかで止まっていた時間や、溜まっていた様々な想いが、雪解けのように流れ始めたのだと、信じたい。

    麻子役の山﨑薫さんが出色の出来。リアリズムな演技面もそうなのだが、大正時代な感じとか、セリフが無くリアクションする時の感じとか、日本人に対する複雑な想いとか、麻子という役のアイデンティティの揺らぎみたいなものとか、自分で自分を制御しきれない感じとか、そういうのが押し付けがましくなく、フワッと伝わる芝居をされていて、とても良かった。皆が手のひらを返したかのような態度で麻子の荷物を運び出すなか、「それに動じないよう振る舞う、でもその動揺が少し垣間見える」みたいな時の居方も良く。
    男優陣も、いわゆる「二面性」の表現の仕方がそれぞれに違っていて、その差異が上手く作品に活きていた印象。

    しかし、公演スケジュールを見ると、この舞台を1日2回やる日が何度かあるのだが、なかなか大変だろうな…と思う。


  • MONO第52回公演『デマゴギージャズ』@吉祥寺シアター
    【2025/3/6 19:00〜20:50(途中休憩なし)】

    明治時代の旧家と、それから150年くらい後の現代(よりも少し未来)。旧家は民俗資料館となっていて、旧家や裏山の所有者は不明状態、というところから物語はスタート。
    古い日本家屋を舞台に、2つの時代を交互に見せながら浮かび上がる「言い伝え」「思い込み」「勘違い」「嘘」「真実」「こじつけ」「デマ(ドイツ語でデマゴギーのこと)」。2つの時代の登場人物は、上手くリンクするように設定されているが、その分、こちらが受け取る情報量も多い。

    いかにもありそうな「旧家を再利用した民俗資料館」な舞台装置が、間取りも含めて上手く出来ているのだけど、明治時代にしてはちょっと殺風景&綺麗すぎる感じがしなくもない。照明が明るすぎたのかもしれない。

    相変わらずの高値安定な劇作と演出と演技なので、満足度は高いし、あちこちに差し挟まれた小ネタも冴えている。
    セリフにしか出てこない「裏山の御石様」の存在が物語の鍵を握っているのだが、その真相もさることながら、その周辺の、サイドストーリー的なものが何層にも描かれ、様々な点と点が繋がっていくような面白さ。そして、「それぞれの登場人物の価値観の違いや価値観の変化」が、この作品の核になっている。

    明治時代は巫女、現代では民俗資料館職員という、どちらの時代でも渦中の人物ではない立場を演じた立川茜さんが、観客に一番近い存在で、それでいて彼女に与えられたポジションはひねりが効いていて面白い。
    現代パートでは畔上夫妻を演じた、渡辺啓太さんと高橋明日香さんの関係性や人物造形も、一見するとそこまで渦中の人では無いのに、「実はこの2人が一番『デマ』という影響を受けている(『デマ』を上手く利用している)」ようにも見えて興味深い。明治時代と現代とで、関係性が反転しているのも、そのネタが読めてしまうけれど、それでも面白い。
    石丸奈菜美さんの、現代パートの「感化されやすいジュエリーデザイナー」という設定とその造形も秀逸すぎる。
    そのほかの俳優陣も、過不足なく各キャラクターの造形が出来ているし、場に居合わせた時の全体の(キャラクターとしての)バランス感覚も、さすが老舗劇団という趣き。

    ただ、劇作に関して欲を言えば、「2つの時代を行ったり来たりしながら重ね合わせていく」ことの調整(伏線回収的なことだったり、2つの時代がリンクしていくようなエンディングなど)はさすがなのだけど、そこで終わってしまった感じも多少あり…前半にもう少し、違う角度からのネタが挟まれても良かったかも。(そうなると当然、前半で省略すべきことが出てくるとは思うので、なんとも言えないのだけど)

    そして、やはり俳優陣も歳を重ねたせいか、四半世紀前に観ていた「小気味よくテンポのある感じの、ドライなセリフの応酬」は影を潜め、「説得力がある感じの、想いが込められたセリフ」が増えたような気がする。ここ数年、その傾向はあったのだけど、今回はそう感じる割合が多かったかも。
    たとえるなら、歌謡ポップスが時を経てジャズバージョンにアレンジされたような感覚。(それもあっての「ジャズ」というわけではないだろうけど)

    しかし、客演とかを迎え入れることもなく、純粋な劇団員だけで、しかも基本的には全員出演で、新作の公演を続けている劇団というのも、ずいぶん珍しくなってしまったような気がする。(今回は、ここ数年は産休だった石丸さんが復帰、という変化はあるが)
    そして、「観劇」という目的が第一にはあるのだけど、なんだか僕のなかでは、「盆と正月に親戚一同の顔を見るために帰省する恒例行事」みたいな感覚にもなってきている気がするw

    騙されやすい人、信じやすい人なんかにオススメな作品。


    MONO第52回公演
    『デマゴギージャズ』
    作・演出 土田英生

    金替康博
    水沼健
    奥村泰彦
    尾方宣久
    渡辺啓太
    石丸奈菜美
    高橋明日香
    立川茜
    土田英生

    舞台美術 柴田隆弘
    照明 吉本有輝子
    音楽 園田容子
    音響 堂岡俊弘
    衣装 大野知英
    演出助手 neco(劇団三毛猫座)
    舞台監督 青野守浩
    演出部 習田歩未
    照明操作 岩元さやか
    宣伝美術 チャーハン・ラモーン
    制作 垣脇純子、豊山佳美
    協力 キューブ、リコモーション、radio mono
    企画・製作 キューカンバー

    主催 キューカンバー[大阪・東京・豊橋公演]、公益財団法人新潟市芸術文化振興財団・TeNYテレビ新潟[新潟公演]、公益財団法人岡山文化芸術創造[岡山公演]
    共催 公益財団法人豊橋文化振興財団[豊橋公演] 、岡山市[岡山公演]
    提携 公益財団法人武藏野文化生涯学習事業団[東京公演]
    制作協力 サンライズプロモーション東京[東京公演]
    助成 文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術等総合支援事業(公演創造活動))・ 独立行政法人日本芸術文化振興会[大阪・東京・豊橋公演]、大阪市[大阪公演]、文化庁文化芸術振興費補助金 (劇場・音楽堂等における子供舞台芸術鑑賞体験支援事業)[新潟公演]

    2025年2月14日〜2月17日 ABCホール
    2025年2月22日 りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館 劇場
    2025年2月28日〜3月9日 吉祥寺シアター
    2025年3月15日・3月16日 穂の国とよはし芸術劇場PLAT アートスペース
    2025年3月20日 岡山芸術創造劇場ハレノワ 中劇場

  • 身体の景色 カタリ vol.5@遊空間がざびぃ
    【『蜘蛛の糸』『なめとこ山の熊』『トロッコ』『瓶詰地獄』2025/3/5 19:00〜20:50(途中5分間の休憩あり)】
    【『雀』『羅生門』『銀河鉄道の夜』2025/3/6 15:30〜17:10(途中5分間の休憩あり)】

    8人の俳優による13作品の一人語りの企画(生演奏が付くものと付かないものがあり)。回によって上演作品の組み合わせが異なる。本シリーズは、過去にも何回か拝見しているが、今回は2ステージ(7作品)を鑑賞。
    どの作品も、装飾のないシンプルな小空間に身ひとつで立ち(座り)、身体表現などを挟みつつも、基本的には「語る」ことに重きを置いている。
    キャパは25席ほど。(回に応じて椅子の増減があるのかもしれない)

    以下、作品ごとに簡単に。

    『蜘蛛の糸』芥川龍之介【田中志歩】
    赤い布を血の池地獄に、グレーの布を蜘蛛の糸に見立て、極楽と地獄を連想させる演出。お釈迦様と罪人との違いを、表情豊かに表現(多少、顔で表現しすぎな気もしなくはないけど)。
    お釈迦様の声色や造形が優しく穏やかな感じだったが、オーソドックス過ぎたか。もう少し、お釈迦様の表現の可能性を観てみたかった気もする。
    語り始めの「極楽は丁度朝なのでございましょう」と、語り終わりの「極楽ももう午ひるに近くなったのでございましょう」が、実はこの作品の肝のひとつだと、個人的には思っているのだけど、ここももう少しいろんな可能性を観てみたかったかな。
    同じ芥川作品の『二人小町』あたりが向いてそうな印象のパフォーマー。

    『なめとこ山の熊』宮沢賢治【末次由樹】
    変化球勝負というよりは、シンプルで直球勝負な演出。登場人物の多い作品だが、良い意味で「声優並み」な演じ分け感があって、特に、熊の親子の会話の場面でキュンキュンしてしまった。(新美南吉作品とかも聴いてみたい感じ)
    「無駄がない」「癖がない」ということが、非常に良い方向へ作用した作品に感じられた。「宮沢賢治に対する個人的な思い入れ」みたいなものが少なかった分、押し付けがましくなく、ストレートに言葉や文体が伝わってくる良さもあった。「書かれている感覚には寄り添いつつ、書いている作者とは距離を取る」みたいな。

    『トロッコ』芥川龍之介【オカノイタル】
    相変わらずの非常に臨場感のある仕上がりだったが、以前に鑑賞した時よりも遊びの度合いが増えていて、そこは少し好みが分かれるところかも。(僕は嫌いじゃない)
    会話の部分で低音を使うせいか、地の文の語りで高音が多くなるのも、気になるほどではないが別のアプローチもありそうな感じ。
    前回に鑑賞した時が「みかん畑」だとしたら、今回はなぜか「ゆず畑」な印象w(甘さが少し減った、みたいな…)

    『瓶詰地獄』夢野久作【大西玲子】
    原作を読んだときから、「これを朗読作品にしたらどうなるだろう」という興味があったので、まさにこのタイミングで鑑賞してみたかった作品。
    「3→2→1」の順で手紙が書かれたという一般的な解釈に基づいていたようにも見えたが、演者もそういう感覚で語っていたのか、それとも、演者が観客をミスリードしていたのか、本当のところは分からない。
    「やはり、一筋縄ではいかない作品だな」という印象。演者がどうこうというのではなく、単純に「語られる言葉としてのテキストが手強い」という意味。「音声としてテキストを提示する場合は、ただ語る以外の何かが必要なんだろうな」とか、「男性が語るとどうなるのかな」なんてことも考えながら観ていた。
    今回の上演そのものはよく出来ていたけど、もう少し中性性っぽい雰囲気でも良かったのかも。

    『雀』太宰治【清水幹王】
    緊張感とか少しオドオドした感じが伝わる舞台だったが、結果的に、その感覚が作品にうまくリンクしていた気もする。煮え切らない感じの太宰感、とでも言おうか。
    ただ、声のトーンの変化が乏しく、無理に技巧的に変えられるよりは良かったものの、もう少し声の出し方(それはつまり、身体の変化ということでもあるが)に幅があると、なお良かったか。語りのメロディーも、マイナー調に偏りがちにも思えたので、メジャー調を多用しても良かったのかも。

    『羅生門』芥川龍之介【オカノイタル】
    「土曜ワイド劇場・下人は見た!羅生門の秘密」みたいな仕上がり。語りを聞いていると、色々なBGMが勝手に聞こえてきそう。
    それくらい、語りの背後に奥行きがあるというか、想像がたくましく広がっていく感じ。「夕闇の羅生門に、時折風が吹いて、落ち葉などが舞っている」そんな景色が見えていた。
    「その言葉でそう遊ぶのか」とか「そのメロディーはどうやって生み出されたの?」みたいに、面白い試みがあちこちに。老婆のキャラも秀逸だ。

    『銀河鉄道の夜』宮沢賢治【中村優子・ピアノほか演奏Darie】
    原作を3分の1ほどにテキレジしてあるのだが、カットが気になることなく、「あれ、こんなに短い作品だったっけ?」と錯覚するほどの自然な仕上がり。「文章(言葉の意味やつながり)でカットしている」のではなく、「身体や呼吸を元に、身体や呼吸が自然に流れるようにカットしてある」印象で、目の前の肉体に無理がないように見えたためだろう。
    中村さんは、良い意味で発声にクセがなく、耳触りが非常に良い。身体も、凝ったことをしなくても形が決まるというか、何気ない動きでも絵になる。指先とか、手の角度とか、目線の高さとか、細部への意識も無意識に出来ている印象。ジョバンニの母になった瞬間は、顔つきが杉村春子のような雰囲気をまとい、大女優感も醸し出し。カムパネルラ父もカッコよかった。ジョバンニの慟哭のあとで、スッと自然な語り口の声に切り替えられのも素晴らしすぎる。
    ただ、ひとつ欲を言うと、「語る<演じる」の傾向が強かったので、動きや道具の使い方なども含め、もう少しビジュアル面の演出が抑えめのほうが、この企画の趣旨には、より合っていたかも。
    ピアノを中心とした、声を含む楽器の生演奏はDarieさん。楽器の音や声も、もうひとつの出演者という感じで、しかし、中村さんの語りとは喧嘩をすること無く、同調しすぎることも無く、拮抗した関係性での関わり方が良かった。音が入ってくるタイミングなんかも、すごく良く考えられていて、中村さんの肉体を見ることなく演奏しているのに、語りと演奏は文字通り「息が合っている」。
    上演は40分ほどだったと思うのだが、もう少し聞いていたいような声と身体と音楽で、耳が非常に喜んだ作品。


  • はえぎわ25周年 本公演『幸子というんだほんとはね』@本多劇場
    【2025/2/27 19:10〜21:05(途中休憩なし)】

    2日目に観劇したのだが、初日後に口コミが広がったらしく、当日券が長蛇の列となり、開演10分ほど押してのスタート。

    素舞台の本多劇場。人がひとり隠れるくらいの幅の両面白いパネルが10枚くらい出て、そこにイラストレーターの下田昌克さんがライブペインティングで、場面に応じた背景や食べ物やイメージなどを墨一色で描いていく、という舞台美術…というか演出。(普通なら、映像を映し出すことで処理すると思われる)
    最初は、それぞれ別々に語られ始めた物語が、まるでシナプスが伸びて繋がっていくように絡みだす構成で、最終的には(たぶん)2組の家族の物語へ。

    垣間見えるセリフやテンションは少しアングラ的でもあり、エンタメ感や身体表現の感じはポッブな今風でもあり、若干カオスな感じとか急にみんなで歌い出す感じなどは小劇場的でもあり、(おそらく)劇団が25年間に上演した作品へのオマージュ的な要素もあり、この25年間の日本の現代演劇史のスタイルを小出しに見せていくような側面もあり。ちょっとした「演劇の詰め合わせ」「演劇のコフレ」みたいな舞台。
    (ちなみに、オープニングで、出演者たちを相手に本多劇場を案内する導入(案内されてる人たちは、揃って「へえー」とか「ふーん」とかしか言わない)なんて、まんまSPACの『病は気から』だったけど、これもホントははえぎわの鉄板ネタなのか…?)

    でも、ダイジェストさは無く、「同時代性」が感じられ、ある意味では極めてオーソドックスなのだが、別の意味では非常に斬新なスタイルにも感じられた。そこに、ノゾエ演出の真骨頂、「ちょっと煙に巻く感じ」「客の好みに応えるくせに、客に媚びない感じ」も。
    演劇人以外の観客が観ても「演劇って、よくは分かんないけど、でも、意外と面白いもんなんだな」と思う人が多いだろうし、「シアターゴアーには、こういう舞台を好きな人が多いだろうな」と思わせる印象で、口コミで当日券が増えるのも分かる気がした。「なんか分かんないけど泣ける」みたいなトコロもあるし。
    (個人的には「あの場面でホントの子役を出してくるのは反則だよー…(涙)」と思ったw)

    劇団メンバー(通称 はえめん)と、客演が半々くらいだが、いい具合にスタイルの違いですみ分けられ、でも、いい具合に両者が馴染んでいて、絶妙。
    まずもって、「風船おばさん」の高田聖子さんが大活躍。というか「捨て場面、一切無し」の存在感。あんなに庶民的な雰囲気を持ち合わせてるのに大女優って、なんなのw そりゃあファンも増えるというものさ。
    踊り子ありさんと東野良平さんの、コンビネーションとキスの嵐も、わけわかんないんだけど、強い印象を残す。

    そして、以前に松本で観た『スカパン』の時は、ほかの俳優の合間に埋没していたようにも見えた串田十二夜さん(串田和美さんのご子息)が、見違えるような俳優っぷり。若さ故の色気、柔軟さ、真摯な感じ…急成長ぶりに驚かされた。ノゾエ氏からのラブコールで出演が決まったそうだが、それも納得だし、十二夜さんがとても活きるように、脚本が書かれ、舞台上で使われていたと思う。

    しかし、今回の舞台のMVPは、やはり下田昌克さんのライブペインティングだろう。セリフや場面のタイムに合わせるように、下絵もなく書き表していくさまは必見。
    俳優たちの演技に合わせて描いているだけだと思うのだが、下田さんのライブペインティングがメインで、それを活かすように俳優たちがその前でミニパフォーマンスをやっているようにすら見えてくる、そんな舞台でもある。


  • サイモン・スティーヴンス ダブルビル『ポルノグラフィ PORNOGRAPHY/レイジ RAGE』@シアタートラム
    【2025/2/26 14:00〜17:15(途中15分間の休憩あり)】

    2005年のイギリスでの地下鉄テロを題材に、ひたすらモノローグ、もしくは、2人だけの会話で構成された『ポルノグラフィ』と、2015年のイギリスの大晦日を舞台に、様々な場面がコラージュ風につぎはぎされたような『レイジ』。いわゆる社会派な作品で、観客の高い集中が要求される演出。演出は桐山知也氏。

    『ポルノグラフィ』は、事件の日の前後を、7つのモノローグや会話で見せるのだが、小道具などもほぼ無い無対象演技。しかも、1つのモノローグや会話のなかで、場面や時間が結構飛ぶので、言葉にすごく集中して聞いていないと、脳内でのイメージが広がっていかない。観客の想像力に頼るタイプの作品と言える。
    地下鉄の入口のような、墓穴のような舞台装置があり、その周囲と観客席通路が主なアクティングエリア。モノローグや会話が終わるごとに、黄色い規制線テープが張られたり、切られたり。
    亀田佳明さんが、テロリストと思しき人物の、事件に至るまでの過ごし方や感じていることなどを独白(シーン4)し、その後、テロの犠牲者となった人物像を1人ずつ語っていく(シーン1)のだが、この2つのモノローグの対比と語り口が見せ場のひとつと言えるだろう。そのあとの、竹下景子さんのモノローグ(シーン2)も見どころではあるが。
    (『ポルノグラフィ』については、各シーンの上演順は指定されておらず、順番に演じなくて良いらしい)

    『レイジ』は、隔てていた大黒幕が取り払われ、螺旋階段をイメージさせる工事現場のような階段が、穴の舞台装置の後ろに現れる。(舞台美術は木津潤平氏)
    大晦日の喧騒や乱痴気騒ぎと警官隊。作者のサイモン・スティーヴンスが、2015年の大晦日に撮影された実際の写真1枚1枚に、短編を当て書きするように書かれた場面が、地続き的にコラージュされている。1人が何役も演じているのだが、「演じ分けている」という明確な見せ方ではないし、『ポルノグラフィ』と衣裳が同じなので、10年後の世界ではあるのだが、同じ人物のようにも見えてくる。
    こちらの戯曲のほうが言葉が鋭く、暴力的・速球的なセリフが多いため、良くも悪くも突き刺さりやすい。耳にも心にも痛みを覚える、そんな感じ。(翻訳が、『ポルノグラフィ』は小田島創志氏で、『レイジ』は髙田曜子氏)

    一度観て、終演後のポストトークを聞いて、そこで初めて戯曲や作品の全容が見えてきて、演出意図も理解できてくる。そんな舞台なので、予備知識ゼロでの観劇だと相当疲れる(と思う)。2回観れば、戯曲や作品の解像度が桁違いに上がると思うのだが、でもまあ、初見で解像度が高くなる仕掛けがあればなお良かった気はする。(「悲劇喜劇」に戯曲は掲載)
    そのあたりの難解さを、出演者たちが演技力で補っているところもあって、亀田さんや竹下さんがキュッと締めてくれている印象。岡本玲さん、田中亨さん、saraさん、土井ケイトさんの好演も良かった。特に、田中亨さんとsaraさんは全編通して2人組で登場し、おふたりが構築したであろう行間部分が舞台に活きていた感覚があり、今回の上演に欠かせない存在だったと言える。

    加納豊美氏が手がけた衣裳も、布地の切り替えやシルエットデザインがとても良く、それぞれの出演者やキャラクターにとても合っていた。
    あと、全員が青系のアイシャドウを入れていたのも、作品の世界観に合っていたし、効いていた。


  • 春野家族劇場 劇団限界集落 音楽劇『城山小僧』@浜松市春野文化センター
    【2025/2/24 14:00〜15:45(途中10分間の休憩あり)】

    ↓こちらで上演時のライブ配信映像のアーカイブ視聴可能
    https://www.youtube.com/live/M2q7FV20uZ4?si=sqQitNk3dWeFnRr6

    出演者25名(うち、小中学生が半分ほど)の新作は、戦前から戦後を生きた一人の女性「なつ」の半生を軸にした朝ドラ的なストーリーに、宮沢賢治の作品と、地域に伝わる「城山小僧」の言い伝えが絡んでくる作品。
    高齢者の多い客層にフィットした内容でもあり、大所帯となった劇団員たちの見せ場もそれぞれにあり、よく工夫された大作と言える。ラストシーンで涙ぐむ観客も周囲に多く見られた。

    前半のクライマックスで「星めぐりの歌」が歌われる中、あらかじめ配られていたペンライトを(会場係の合図で)振り出す客席の光景は、さながらアイドルのコンサートのようで、春野という場所とその光景の、美しいミスマッチにグッとくる。

    今回は歌う場面は少なめで、芝居や場面転換で見せていく構成。さらに、セリフを極力排除し、言葉に頼らない表現を模索する場面も挿入するなど、劇団としての挑戦も感じられた。
    公演を重ねるごとに、出演者や演出が、ステップアップしていることも分かる。無料公演だったが、いくらかチケット代を取っても(あるいはカンパ制にしても)遜色ないレベルの舞台ではある。

    欲を言えば、(脚本上での)登場人物の使い方というか、描かれ方がもったいない部分がいくつかあった。
    「主人公なつの幼なじみである勲が、後半まったく物語に絡まない」とか、「なつの嫁入り後、なつの家族がほぼ登場してこない」など、メインの数人を除いて、その他の登場人物の主な役割が、「その時その時の、なつの状況や心情を説明するためとしての存在」になってしまっていて、もう少し、周囲の人たちの生活というか、それぞれがちゃんと生きている姿も描いた、たとえばワイルダーの『わが町』のような「群像劇」になっていても良かったかな。
    勲とか、なつのきょうだいとかは、後半でももう少し描いて、さらに魅力的な人物造形にしたり、物語にもっと奥行きを生み出したり、そういう可能性もあっただろう。

    そして、「周囲の人たちの描き込みが少ない」場合、当然ながら、「一言二言のセリフでキャラクターやシチュエーションを見せないといけない登場人物」が結構出てくることになる。
    そうなると、「セリフ以外の部分での見せ方(演じ方)」がかなり重要になってくるのだが、それはやはりプロでもなかなか難しいわけで、劇団員の彼らにはちょっと荷が重すぎた気もする。
    現状、観客がストーリーを追うことには支障ないのだけど、なつとその人物の関係性とか、なつが置かれている状況を浮かび上がらせる、というところまでには残念ながら至らず…

    それから、前半の書き方の丁寧さに比べると、後半がやや駆け足気味にも感じられ、たとえば、離縁されたあとのなつの孤独や、なつが城山小僧と出会ってから別れるまでなどは、もう少し細かく描かれていても良かったのでは、と思ったり。
    特に後半は、「総集編感」や「ダイジェスト感」が少しあって、しかし本来ならば、もっとじっくり腰を据えて描き切るべきタイプの題材だったようにも思う。(あるいは、ややテンポアップする場面や、逆に時間が引き延ばされたようにじっくりと見せる場面など、もう少し場面ごとの演出に緩急やダイナミズムを付けるか)

    あと、おそらく、小屋入りして、明かり付きで稽古できる時間も限られていただろうから、仕方がない面もあるのだが、照明のオペレーションの呼吸が、演じている俳優たちの呼吸と少し合っていないように感じられたのがもったいなく…
    場面の終わりや始まりと、照明との関係が、ややギクシャクしていた印象。退場していく人たちの「できればあまり見せたくない動き」が照らし出されてしまったり、明かりの切り替わりを待ってしまったがための無言時間が生まれてしまったり。

    使われている音楽の大半は、今回も、舞台下手に置かれたピアノの生演奏だったが、今回の題材的には、ピアノ以外の(たとえばパーカッションなどのような)音色があると、物語にさらに奥行きが生まれたような気もする。

    それでも、集まれる時間も限られる状態の中、兎にも角にも、これだけの大作をやり切ろうとする、その心意気は、力強く、美しい。その気概だけでも、充分、称賛に値する舞台ではある。


    浜松市生涯学習機会提供事業 春野家族劇場
    劇団限界集落
    音楽劇『城山小僧』
    脚本・演出 松井茉未

    おばあちゃん 入手健夫
    なつ 柳澤知子
    勲(なつの幼馴染み)/孝一(みどりの父) 中村勇貴
    みどり 柳澤百合香
    清(なつの想い人) 松下倫子
    晶子(なつの親友) 中村彩話
    きく(なつの母) 山下尚美
    重吉(なつの父) 西田公城
    えい(なつの妹) 中林弥栄
    茂(なつの弟)/実(宿屋の息子) 岩本栞
    妙子(なつの妹) 岩本楓
    はる(なつの妹) 中村華野
    ひー坊(なつの弟) 高津とよ
    静子(なつの妹) 松井萌々加
    さと(宿屋のおかみさん) 片瀬博之
    孫作(宿屋の主人) 清水こうめ
    かよ(茂の妻)/よし江(哲太の妻) 宮原くるみ
    哲太 高津菜穂子
    昭三 進藤博行
    たまえ 柳澤歩美
    マー坊 池谷あかり
    さんべさ 高津やちほ
    星たち/山の精 松井柚菜
    城山小僧 中村心音
    星たち 西田大知

    振付・構成 大前光市
    楽曲提供 鈴木のぞみ
    ピアノ演奏 岡本千恵
    音響/効果 チャンジ、田代起也
    照明 三室勇樹、中谷友亮
    衣装 松下倫子、柳澤知子
    舞台セット・舞台美術 高津菜穂子、進藤博行、中村勇貴、田代起也
    制作 劇団限界集落

    主催 浜松市

    2025年2月24日 春野文化センター

  • 劇団山の手事情社 二本立て公演『マクベス』『オセロー』@シアター風姿花伝
    『マクベス』【2025/2/22 16:00〜17:15(途中休憩なし)】
    『オセロー』【2025/2/22 19:00〜20:15(途中休憩なし)】

    ※それぞれ単独での上演ではあるが、交互での上演という企画で、両方観劇したので、まとめての投稿に。

    『マクベス』
    これは山の手の特質だと思うのだが、セリフが非常に明晰で、かつ、「語る」ことが徹底的に意識されていて、聞いていてとても気持ちがいい。
    だから…ということもあるが、エモーショナルが最小限に抑えられているというか、感情表現に対する抑制が非常に効いていた。感情面を出し過ぎてしまうと、男性性/女性性がわりと明確になってしまう演技になってしまうと思うのだけど、そのあたり、「男性/女性である前に一個の人間」感が出ておりオールフィメールという形での上演にも関わらず、女優であることが全く気にならない演出だった。マクベス役以外が皆、同じデザインの同じ柄のシースルーな衣裳だったのも、フェミニンではありながら、女性らしさが強調されすぎず、非常に良い選択だったと思う。
    テキレジが良い意味で挑戦的で、「単にあらすじを追う」とならず(そのため、『マクベス』初心者には人物相関が少し分かりづらいかも)、「こういうものを見せたいんだ」「このセリフを聞かせたいんだ」というような、演出を担当した斉木氏の、作品に対する意思のようなものが透けて見えた。そして、出演者たちも、それをきちんと汲み取って演じているように感じられた。
    なかでも、マクベス役の中川佐織さんの、息を詰めるようなセリフや、ささやき気味のセリフであっても、「一音も無駄にすることなく捨てることなく、想いを語り尽くす」みたいな意気込みが、役の本質と上手く重なって、非常に感動を覚えた。良質な集中で演技をしている感じ、とでも言おうか。クライマックスの「明日また明日また明日と…」の独白も圧巻。
    演出面では、丸いお立ち台のようなスペースと一段下がったその周囲だけで処理し、ミニマムな空間で工夫されてはいたが、舞台が進むにつれ、絵柄の変化が限られてしまったのがもったいなかったか。幻想的な照明も効果的で美しかったのだけど、そこも、後半で少し変化が欲しかったかも。
    冒頭とラストの、円形舞台の周りをゆっくりと歩く人たちの、後ろ足を蹴り上げるような動きが美しく、印象に残る。

    『オセロー』
    デズデモーナの魂(山口笑美)が「結末に至るまでの経緯を回想する」という感じの演出で、オセロー(山本芳郎)が亡くなった姿を幕開きで見せ、その後、原作の冒頭部分から始まる。「作品における『白と黒』」にこだわった演出で、黒い椅子と白い椅子や、デズデモーナの魂の純白のドレス、イアーゴーの頬の黒いあざなど、ビジュアル面でも明確に。
    ただ、白のほうを少し取り上げすぎたというか、デズデモーナの魂のほうに比重や思い入れを置きすぎた感じもあり、黒のほうの演出がもう少し「ドス黒く」ても良かったかな、とも。策略や嫉妬までもが「美しく」描かれすぎてしまった気が。
    二本立ての中では、『オセロー』のほうが、四畳半スタイルのような動きも多用されていたり、ルパム的な振付が何箇所か挿入されていたり、コミカルな要素も少しあったりと、より山の手事情社らしい印象。
    山本芳郎さんは、動いたときに身体が決まるまでの時間が誰よりも短く、身体が決まった状態でのセリフ中は全く身体がぶれず、とにかく、身体の見せ方や扱い方が抜群に上手い(セリフは言うまでもなく)。
    客席に対しての身体の角度の取り方とか、相手との身体の距離の取り方とか、もはや、AIかセンサーでも付いているのではなかろうかと思われるほどに、「そうだよね、それがベストの選択だよね」的に最適解を叩き出してくる。もちろん、長年かけて培われて身に着けたものだろうけど。
    あと、何よりすごいのが、「他の出演者が山本さんに比べて見劣りする」とならないことだ。山本さんの独り舞台にならない。突出していながらも、馴染んでいる。レベルを落として馴染むわけでもなく、山本さんは山本さんでありながらも、「俺、上手いだろ」感が無く、真摯に共演者と対峙している。その感覚は本当に尊敬に値する。
    だからこそ、共演者も文字通り「胸を借りて」果敢に挑んでくる。その「真っ直ぐさ」「がむしゃらさ」もあって、山本さんと並んで見劣りすることが防がれているのかもしれない。先輩と後輩の俳優の理想的な関係性のひとつだろう。

    『マクベス』に比べると、『オセロー』は「クラッシック」な印象の舞台で、『マクベス』が不協和音的なロックだとすれば、『オセロー』は交響曲的だ。原作の作品世界的には逆の印象もあるのに、そこが今回の二本立てでは、逆転しているように見えるのも面白い。


  • テラッピン・パペット・シアター×愛知県芸術劇場 国際共同制作『ゴールドフィッシュ〜金魚と海とわたしたち〜』@愛知県芸術劇場小ホール
    【2025/2/11 11:00〜12:00(途中休憩なし)】

    オーストラリア・タスマニアの人形劇団と愛知県芸術劇場の共同制作作品で、テラッピン・パペット・シアターの芸術監督サム・ラウトレッジ氏と、第七劇場の鳴海康平氏の共同演出。

    作品から察するに、いろいろな制約やしがらみの中で創られたであろうことがなんとなく伝わってくる。着地点が少し分かりにくいというか、試作っぽいというか、「自信作が出来たから持ってきたよ!」というよりは、「こういう条件で創ってみたけどどうでっしゃろ?」感があり…評価が難しい作品とも言える。

    女優がひとり、ファミリー向けの作品を上演し始めると、しばらくして、作品内容にリンクするかのように、劇場の外で洪水が発生して上演中止。劇場は急きょ、防災センター(避難所?)として使われることに。防災センターとしての準備(支援物資が運び込まれたり、上演中のものが片付けられたり)が進むなか、女優はなんとかして上演を続けようと試み、やがて、現実世界と劇世界が入り混じっていき…

    というのがおおよそのあらすじなのだが、「災害大国の日本(の観客)」という視点でいると、展開されることがあまりに非現実すぎて、どこまでをリアルな感じで受け取れば良いのか、判断に戸惑う。「海外の人から見た日本」が「リアルな日本の姿」とどこかかけ離れて描かれることが多いが、まさにそんな感じ。
    「避難所はあんなに朗らかな感じじゃない」とか、「『劇場の外では災害が起きている』を観客に当事者としてリアルな感覚で捉えてほしいなら、もっとシリアスな現場になるはず」とか、「避難所に変わっていくにしては出てくる人が少なすぎ(2人だけ…)」とか、現実に照らし合わせて観てしまうと、ツッコミだらけの作品となってしまう。
    最終的には劇世界のほうで終わり、「劇場の外の洪水はどこへ行った」状態で終演するし…

    一方で、「全てがフィクションであり、ファンタジーてあり、そういう枠組みで遊んでいるだけ」と割り切って観た場合は、「もっと有効な展開の仕方があるのでは?」とか、「災害設定がそもそも無くても良いのでは?」とも感じてしまい、元々上演をしていたファミリー向けのストーリーをもっとしっかり観たくなり…
    なんとももどかしい感じに。

    そんな中、ストーリーテラーも務めつつ劇中劇を進めていく女優の岩崎麻由さんが、この「少し輪郭のぼやけた作品世界」を、どうにかして一定レベルのクオリティに押し上げる役割を果たしていた。彼女の働きが非常に大きい。
    現実と非現実の狭間をたゆたうような存在感というか、彼女の中に、大きく強固な軸があるように見えたので、そのおかげで、砂上の楼閣のような作品が崩れること無く終幕を迎えていたように感じられた。
    終演後、共同演出の鳴海さんに伺ったところ、岩崎さんはニューヨークで、アメリカ人のスズキメソッドの第一人者である、エレン・ローレンのもとで演技をしていた経験もあるらしく、どうりで軸のブレない身体性だったわけだ。そこはかとなく感じられた、良い意味でのスズキメソッド感のおかげたったのか…と納得。

    ちなみに、タイトルは「金魚」という意味で、劇中劇で「世界を救うために金魚の力を借りる」のと、防災センターのひとりが「カッパを着てゴーグルをした姿が金魚に似ている」ことから来ているようだ。


  • ユニークポイント ひつじノ劇場こけら落とし公演『Come on with the rain』@ひつじノ劇場
    【2025/2/10 19:00〜20:10(途中休憩なし)】

    たまたま、NHKドラマ『東京サラダボウル』のベトナム人労働者の回を最近見ていた。たまたま、NHK『映像の世紀 バタフライエフェクト』で「ベトナム 勝利の代償」を最近見ていた。たまたま、アウトリーチのワークショップの関係で詩集を手にしていた。図らずも、今回の作品に繋がるあれこれが、自分の中にあり、感覚が敏感な状態での観劇となった。

    新劇場の杮落し公演(=新劇場お披露目公演)。白子ノ劇場から比べると、間口は3分の2くらいになった印象。アットホーム感や劇場感は、新劇場のほうが勝っているかも。
    ただ、舞台袖は舞台脇に無く、登退場は舞台奥からのみという劇場で、特殊性も増したかも。
    今回の作品もそうだけど、平田オリザの『S高原から』とか、鈴江俊郎の『家を出た』みたいな、「そこに住んでる人たちが集うロビー」設定の芝居が上手くハマりそう。

    ベトナム・ダラットの安ホテルのロビー。季節はずれの台風が接近しているらしく、外は暴風雨で、空港は閉鎖。出国予定だったホテル客の日本人(心臓内科医の夫とその妻)、妻が外のカフェで知り合ったバックパッカーの日本人女性ののぶ子(元教師)と、ホテルのオーナーのベトナム人男性と、不法滞在中のホテルの男性客。
    会話を繰り広げるのは主に日本人たちだが、ベトナム人がいい具合に絡んできて、「本当に日本語が通じないのに、まるで伝わってるかのような反応」の絶妙なリアクションをしたり。

    「さりげなく、いいセリフ」が、今回も散りばめられていて、安定の劇作と演技。行間の演技の巧さも光る。
    「川島が、出かけたきり戻らないまま幕」というパターンも想定しながら観ていたが、無事に(?)戻ってきて、そしていなくなるというドラマが。
    残されたオーナーとのぶ子が、やり切れない想いを噛み締めるかのように、それぞれにバインミーを食べる幕切れが印象的。この終わり方は秀逸だと思った。

    少しひねくれた見方をすれば、「川島は本当に事故に遭ったのか?(事故に遭ったふりをして、あの場から立ち去るきっかけを作りたかっただけなのでは?)」とも思った。川島にしてみると、彼らとの出会いで、自分の中で揺らいだものがあったようにも思うし、だからこそ、なにかきっかけが欲しくてそのきっかけをでっち上げた、という演じ方もあるな、と。
    また、あえてそうしているのだと思うけど、ホテルの殺風景さも、なんだか色々と裏設定を作れそうな余白が感じられた。
    それから、聞き間違いでなければ、設定が2025年の今より、ほんの少しだけ先を行っている気がしたのだが、気のせいか?

    欲を言えば、山田作品の特徴のひとつ「言葉にできない瞬間の『間(沈黙)』」が、いつもに比べると少し物足りなさがあったように、個人的には感じられた。演技の問題というよりは、戯曲の問題なのかもしれない。沈黙状態になってしまうまでの会話の流れと、沈黙状態を脱するための話題の方向転換の仕方に、滑らかさが足りないというか、少しカクカクしていたような印象。「フェードイン/フェードアウト」してほしいわけではなく(そういう意味での「滑らかさ」ではない)、沈黙になる直前の会話とそのあとの会話に、僕には(ほんとに若干なのだが)強引さが感じられた。(もっと豊潤な沈黙の瞬間をこれまでに何度も観てきただけに、今回はそれがあっさりめだった印象)

    またこれも、欲を言えば…レベルなのだが、たとえば、戯曲に描かれているであろう夫の「人物像」と、夫が実際に口にする「民度が低い」みたいな「言葉のチョイス」に、若干のミスマッチさが感じられた。(「この人、こういうボキャブラリーの選択をするんだ…」みたいな)
    また、妻が最初に登場してきた時に夫を見て発する第一声から感じられた「雰囲気イマイチ良くない感じの倦怠期感」と、以降で語られる会話から感じられる「実際はそうでもない感じ(そこまで雰囲気は悪くない)」だったり、金子みすゞについての知識がありそうな感じなのに、実はそうでもないような設定の妻とか、金子みすゞの詩集を旅行に持ち歩く設定だけど、(僕の中では)「金子みすゞを好きな人」から連想され得る人物像とはイメージが少し異なる(ように感じられた)のぶ子のキャラクターとか、「人物像をいつもより曖昧にして書かれている部分が多いのかな?」という印象。

    そしてこれは、本当に個人的な好みの問題でしかないが、自分は「金子みすゞ」(&劇中に出てきた『世界に一つだけの花』も)にそんなに共感性がないので、ちょっと金子みすゞ推しな展開だったのが、自分にはあまりフィットせず…
    金子みすゞである必然性が個人的にあまり感じられなかっただけなのかもしれないし、金子みすゞの実人生の何かとリンクする設定とか、3.11の時に盛んにCMに使われたことが何かに繋がっていく、みたいな設定があれば良かったのかも。