観るのも演るのも日々是好日!

演劇界に生きる男の観劇記録

SPAC-静岡県舞台芸術センターで俳優やってます!

倉敷幼稚園→粒江幼稚園→粒江小学校→倉敷南中学校→総社南高等学校→大阪教育大学

関心あるモノ・コト = 演劇/LEGO/昭和歌謡からJ-POP/字を書くこと/フィギュアスケート鑑賞/温浴施設めぐり/乗り鉄/旅行/睡眠

公益財団法人せたがや文化財団『黒百合』@世田谷パブリックシアター
【2026/2/10 14:00〜16:45(途中20分間の休憩あり)】

1899年に新聞連載された泉鏡花の小説を、藤本有紀氏が脚本化。演出は杉原邦生氏。『天守物語』や『夜叉ヶ池』などにも通じるモチーフやエピソードがあったり、自然と人間との関係性が描かれるなど、いかにも鏡花らしい作品と言える。
舞台は非常に意欲的な仕上がりで、心意気は伝わってくるし、実際の観客の満足度も高そうではある。
脚本(藤本有紀)、演出(杉原邦生)、ステージング(下島礼紗)、音楽(宮川彬良)、美術(堀尾幸男)、衣裳(西原梨恵)、演技(出演者)、それぞれ単体では、どれも悪くない。むしろ、各セクションは非常に良い仕事をしていると思う。

しかし、組み合わせがベストではなかったかも。たとえば、「この脚本でいくなら、演出や演技はもっと違うほうが良いのでは?」みたいな感じで、各セクションの相性の居心地の悪さみたいものを感じてしまった。これは、自分が演じる側、作品を生み出す側だから、余計に、ちぐはぐに感じられてしまったのかもしれない。
或いは、以前に「修復に失敗して物議を醸したフレスコ画」が話題になったけれど、ちょっとあれに通じるところもあり、作品全体が「大胆で強引な力技」でまとめられてしまったようにも見えた。(もしくは、「中国オリジナルの国産テーマパーク」と聞いたときのイメージのような、細部が気になる粗削り感と間に合わせ感と、全体のカオス感)

この「力技」感に関しては、場面転換の多さに起因する部分もあると思う。とにかく場面が多い。そしてそのたびにとっかえひっかえ、舞台上の設えが人力で変わる。(暗転になった時の舞台上の場ミリ蓄光テープは、星空のようですらあった)
座敷の場面のユニットに立てられた柱は寄りかかると微妙に揺れ、滝の場面にはビニールラップで表現された滝と滝つぼが現れ、洪水の場面では細細いビニールラップを俳優たちが上手と下手で持ち、波布のように揺らすという手法が取られ、良くも悪くも学生劇団のような手作り感と、そこはかとなく感じられるアングラ感。
そして、ラストの、山が2つに割れて現れる画質が荒い北斎の大波しぶきと、文化祭のクラス劇の大道具のような船の装置には、心のなかで「えええええーーーー!?」と叫び…(笑)

魑魅魍魎的な自然界の存在は、出演者たちが下島礼紗氏のステージングで表現。身体表現としては面白いのだけど、ちょっとおちゃらけの方向に戯画化しすぎたというか、鏡花の世界から現れ出たものの感じには欠けたかも。
演技(語り方や身体性など)も、全体的には現代寄りで、大正時代感に欠け、ならば、脚本ももう少し現代寄りにアレンジすれば良かったのに…とも。
音楽も、大正時代からはあえて狙って外したようにも思うが、ならばもっと現代に寄せても良かったのでは?とも。

長くなってしまったが、きっとつまり、戯曲以外の各セクションが、現代の感覚に少し寄せ過ぎてしまっていたのだと思う。しかも、それぞれがプロなだけに、横のセクションとの繋がりや関連性みたいなものよりは、「自分が作品から受けたインスピレーション」のほうを大切にして、各セクションから提出されている感じ。
それにより、いわゆる「鏡花的な感覚・世界観」の根っこの部分からは離れてしまい、「鏡花をモチーフにした現代劇」に変容していたのだと思う。
脚本が上がった時点では、鏡花の世界観を写し取った作品だったと思うのだが、立ち上がっていく過程でだんだんと現代性が勝ってしまい、結果、鏡花からは離れてしまった感じ。なのに、語られる言葉はかなり鏡花に忠実なため、何とも言えない違和感が残る。

出演者も、単体では上手い人が多かったと思うのだけど、「鏡花の世界観(鏡花の言葉を語る)」という点では、成功していたのは若山拓(ひらく)役の白石隼也さんと、白魚のお兼役の村岡希美さんくらいかも。
(とは言え、白石隼也さんは役柄的に現代っぽく演じにくい役どころだったのと、村岡希美さんは「気風のいい江戸っ子の姉御」という現代でも通じる演じやすさがあったとは思う)

劇場の機構をふんだんに使い、見応えがあることは確か。現代にも通じるテーマ性もある。
ただ、泉鏡花というジャンルが、演劇で表現するにはなかなか手強いということもまた、改めて浮き彫りになった気がした。


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